2026年4月1日(水)、「2026年度 京都精華大学・大学院入学式」を挙行しました。
新入生が一堂に会し、今年度より名称を新たにした人文学部、メディア表現学部、芸術学部、デザイン学部、マンガ学部、芸術研究科、デザイン研究科、マンガ研究科、人文学研究科を対象に執り行うことができました。
新入生が一堂に会し、今年度より名称を新たにした人文学部、メディア表現学部、芸術学部、デザイン学部、マンガ学部、芸術研究科、デザイン研究科、マンガ研究科、人文学研究科を対象に執り行うことができました。
今年度は、学部・大学院合わせて約1,000名が入学しました。
2026年度より新学長に就任した姜 竣学長は「この春、学長に就任したばかりの私も、みなさんと同じようにスタートラインに立っています。みなさんを迎えることができ大変嬉しく思っています。学ぶためにこの大学に集ったみなさんは、これから日々、形を読み、形取り、形を練り、形にすることに励むことになります。しかし、それだけでなく、画面の余白、コマの間白から文章の行間に至るまで、「間」についても学んでいくのです。ぜひ、間にも目を向け、沈黙にも耳を傾けてください。それでこそ、あなたらしい表現、かけがえのない表現者としてのあなたは、完成していくのです。」と新入生に歓迎と激励の言葉を述べました。
2026年度より新学長に就任した姜 竣学長は「この春、学長に就任したばかりの私も、みなさんと同じようにスタートラインに立っています。みなさんを迎えることができ大変嬉しく思っています。学ぶためにこの大学に集ったみなさんは、これから日々、形を読み、形取り、形を練り、形にすることに励むことになります。しかし、それだけでなく、画面の余白、コマの間白から文章の行間に至るまで、「間」についても学んでいくのです。ぜひ、間にも目を向け、沈黙にも耳を傾けてください。それでこそ、あなたらしい表現、かけがえのない表現者としてのあなたは、完成していくのです。」と新入生に歓迎と激励の言葉を述べました。
その後は各学部長が挨拶を行いました。各学部の学びの意義や、卒業までに意識的に取り組んでほしいことを語り、ともに学ぶことを楽しみにしていると温かなメッセージを送りました。
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人文学部長 髙橋伸一 -
メディア表現学部長 吉川昌孝 -
芸術学部学部長 北野裕之 -
デザイン学部長 岸川謙介 -
マンガ学部学部長 下村 浩一 -
芸術研究科長 吉野央子 -
デザイン研究科長 蘆田裕史 -
マンガ研究科長 小田隆 -
人文学研究科長 前田茂
新入生代表挨拶は、芸術学部 長谷川桃香さんが務めました。
長谷川さんは、「大学4年間はどう学び、どう行動するか考え主体的に過ごしていきたい。好奇心を支える施設や学びの環境を活用し、自分の意思で挑戦し学ぶことで、実りある時間にしたい」と、これからの大学生活への意気込みをお話しされました。
長谷川さんは、「大学4年間はどう学び、どう行動するか考え主体的に過ごしていきたい。好奇心を支える施設や学びの環境を活用し、自分の意思で挑戦し学ぶことで、実りある時間にしたい」と、これからの大学生活への意気込みをお話しされました。
あいにくの雨天でしたが、式典後は会場外に在学生有志が集まり、クラブ・サークルの勧誘など、歓迎の催しが行われました。
新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。これから京都精華大学で出会う友人や教職員と、ともに学びあい、有意義で楽しい学生生活を過ごしてください。
新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。これから京都精華大学で出会う友人や教職員と、ともに学びあい、有意義で楽しい学生生活を過ごしてください。
「2026年度 京都精華大学・大学院 入学式」学長挨拶
新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。
また、日ごろから、ご子息・ご息女を支えてこられた保護者のみなさまにも、心からお喜び申し上げます。
この春、学長に就任したばかりの私も、みなさんと同じ新人として、スタートラインに立っています。ここに、格別の思いで、教職員を代表してお祝いのことばを申し上げます。
今日、晴れて大学生になったみなさんの多くは、すでに、成人でも、有権者でもあります。日本では、2015年に選挙権年齢が、2022年には成年年齢が20歳から18歳に引き下げられました。みなさんの中には、昨年度に成人式を挙げ、2月の衆議院選挙で投票し、4月に大学に入学と、人生の大きな節目を迎えた人がいるかもしれません。
なるほど、早く自立を促すという意味では、元服とよばれる大人への通過儀礼を、十代の前半に行っていた昔へ、時代が回帰しているようにも思えます。しかし、昔と現代とでは、成人式の重みがまるで異なります。
昔のライフサイクルでは、七歳を過ぎると徐々に大人の世界に入っていきました。七つの七五三に、初めて男の子が褌を、女の子が腰巻をつけるのは、大人への階段を上り始めることを象徴します。それから、十代前半に元服を迎えると、名実ともに一人前として扱われます。名実といったのは、元服を機に幼名を捨てて大人の名前を名乗り、結婚式が同時に行われたからです。成人への通過儀礼が、昨日までの時間の流れを断ち切り、人生の節目をくっきりと刻んだのです。
じつは、韓国で生まれ育った私には「ソンホ」という幼名がありました。幼少時代は、ソンホとして日々、暮らしていました。
ところが、小学校入学の前日に、母から、「明日から学校でジュンと呼ばれるからね」と、知らない名前を告げられました。それまでソンホであった私は、大変驚き、面食らいました。翌日の入学式で、担任先生に「カン・ジュン」と呼ばれたとき、なんだか妙に恥ずかしく、違和感と少しの反発心から碌に返事をしなかったところ、みんなの前で怒られてしまったことは、ここだけの話にしてください。
さて、私の人生の初めての節目は、そのように名前が変わるという大きな変化に見舞われましたが、本日、大学生として第一歩を踏み出すみなさんは、昨日までと何が変わりますか?
実は大学進学はそれ自体にまだ特別な意味はありません。国内はもちろん、海外にも目を向ければ、大学に進学しなくても目覚ましい活躍をしたり大きな仕事を成し遂げて、充実した人生を送っている若者がたくさんいます。大学を象牙の塔というのは、俗世から離れ、現実を忘れて観念的に暮らす、大学人への皮肉を込めた比喩ですが、ここで過ごす4年間ないし2年間は、みなさんにとって大変恵まれた時間であることは確かです。ならば、その貴重な与えられた時間を、みなさんは大学でどう過ごしますか?
まず言えることは、大学とは、学びの場であって、みなさんは、学ぶためにここに集ったということです。
みなさんは明日から、「表現で世界を変える」人を育てるこの大学で、日々形を読み、形取り、形を練り、形にすることに励むようになります。一本の線を引くことから、フィールドワークの作法や論文の書き方に至るまで、どの学びも「形」と深く結びついています。自分の表現を築くには、見本や手本を真似ることから入っていきます。しかし、究極は「型」に到達しなければなりません。形と型はどう違い、どういう関係にあるのでしょうか。
教育哲学者の生田久美子さんは、日本の伝統芸能で師匠から弟子へ技が伝承される過程を研究し、そこで形と型というものの違いとかかわりをとおして、「学ぶ」ことの本質を考えています。いま巷で話題になっている映画『国宝』の世界観にもみられるように、伝統的な芸の道は、とても格式が高く閉鎖的で、ベールに包まれたところが多い。その伝承の神秘にメスを入れること、それが生田さんの研究の狙いです。
技の習得は、外面的な「形」の模倣にはじまるけれども、最終的には「型」ができなければ完成しないといいます。「型」とは、長い年月をかけてくりかえされ、当人も意識しないところで、身体の挙動を規定してしまっている傾向性のことです。
形と型の違いは、世阿弥がいう「無主風 むしゅふう」と「有主風 うしゅふう」の区別から理解できます。形を真似るだけの「無主風」に対して、「形」をわが物にした状態、「形」を自らの主体的な動きにした状態が「有主風」であり、それは学習者が「似せよう」という気持ちをついになくした状態です。世阿弥は、能の習得には自分自身の主体的な動きとなるまで「物真似を極める」ことが重要でだと説いたそうです。
どうすれば、単なる模倣を自分自身の主体的な動きにするまでに至るのか?逆説的ながら、動きを止める「間」を体得することです。「間」とは、単なる空白でも沈黙でもなく、「間」もまた別の表現だということを学習者自らが認識することが大切で、そうした「間」の体得が、技を学ぶ究極の目標だといいます。
さらに、「間」を体得する上では、当の芸の世界に身をおくこと、「世界への潜入」が極めて重要です。伝統芸能の世界には、内弟子になって師匠の家に住み込み、生活を共にしながら身の回りの世話や家事の手伝いをする、徒弟制という制度があります。落語の場合、昔は弟子入りして稽古をつけてもらえるまで、なんと2年もかかっていたそうです。外に住んで稽古の度に通ってくる通い弟子に比べて、内弟子は、「形」を学ぶ機会が圧倒的に少ない反面、師匠の生活ぶりと固有の芸風のつながりを体で覚えているから、つまり、体幹ができているから、芸の「間」が容易にわかるといいます。
このような「世界への潜入」は、「参入」ではなかったかと、何十年も前に読んだ生田さんの本にもう一度あたりましたが、やはり「潜入」でした。というのも、伝統的な芸の道では、師匠が技を積極的に教えようとせず、門外不出として、むしろ隠そうとします。歌舞伎などの家元制度の血統主義はその最たる例です。なるほど、「芸を盗む」というのは、教える側と教わる側の緊張関係の中で、教わる方のモチベーションが最大化するという意味にも取れます。
ところで、生田さんは「間」とは単なる空白でも沈黙でもないと言っていますが、私は少し考えが違って、空白と沈黙は根本的に異なるものだと思います。昔から沈黙は金なりといいますし、より積極的な意図もあります。わたしたちが対話の中でだんまりを決め込むのは、不同意や不服、拒絶を表明するためで、そうしたディスコミュニケーションもコミュニケーションの大事な一側面なのです。もっと大事なことがあります。沈黙は、秘めた力を自分の中に貯めて、いよいよ動きだすまでの踏ん張りの時間だということです。
明日からみなさんは日々、「形」について学ぶことになります。しかし、それだけでなく、画面の余白、コマの間白から文章の行間に至るまで、「間」についても学んでいくのです。ぜひ、間にも目を向け、沈黙にも耳を傾けてください。それでこそ、あなたらしい表現、かけがえのない表現者としてのあなたは、完成していくのです。
最後に、歴史ある京都にあって、自然豊かなキャンパスで友と語りあい、切磋琢磨してください。存分に青春を謳歌してください。そのための支援を大学は惜しみません。みなさんがここで、師と仰げる人に巡り会い、「形」と「型」を見つけ、学びを深められることを祈念して、私の式辞といたします。
本日はご入学、誠におめでとうございます。
2026年4月1日
京都精華大学学長 姜 竣