内田 樹×白井 聡 対談「この危機に臨んで人文学にできること」

2015/12/03

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●知性も教育も「集団的に発動する」もの

内田 僕が大学の教務部長だった時、文科省から、シラバス(授業計画の大要)をちゃんと書くようにと指導があったんですけど、僕は教授会で「こんなの意味ないから書かなくていい」と言ったんです(笑)。というのも、その前に取ったアンケートでわかってたんです。教員がシラバスをきちんと書いているかどうかと学生の授業満足度は何の相関関係もない、と(笑)。エビデンスに基づいて判断したわけです。ところが次の年、文科省から補助金を減額されてしまった。彼らは「意味があろうがなかろうが、とにかく命令に従え」と言ってるわけです。そんなのは知性と呼ばない。しかも、シラバスを書くべき理由を示すのではなく、金で締め付けてくる。大学人は金で動く、人間は金で適否を判断するという、とんでもなく貧しい人間観をもった人たちが教育行政を預かっているということですよ。

白井 シラバスで15回分の授業内容を書く時に、最後の回は「まとめ」とする教員が多いんです。授業を進めるうちに話が脱線したり、時間が足りなくなったり、どうなるかわからないから。すると、数年前にすごい通達が文科省から来たんですよ。「シラバスの15回目に『まとめ』と書いてはいけない」と(笑)。いや、なんてヒマな仕事なんだと思いました。

内田 文科省の人たちも個人的に話せばいい人たちですし、こんなものが教育の成果と何の関係もないことはわかってると思うんです。問題は政治家と財界。彼らがいろいろ言ってくるから、ある程度言うこと聞かなきゃしょうがないというのもあるんでしょう。
だけど大学っていうのは基本的に管理しちゃいけない。何をやってるかわからないマッド・サイエンティストみたいな人がたくさんいて(笑)、その中の一人が何かのきっかけで大化けしてすごいイノベーションを起こす。100人に1人ぐらいの確率かもしれないけど、それぐらいの歩留まりでがまんしないと。キャンパスっていうのは、そういう人たちがたくさんいて、異分野の人が出会ったり、互いの知見に触れたりすることでケミストリーを起こす、そのための場所なんですよ。

白井 大学というのは共同して知の発展を作り出していく場なんだという空気が、たぶん私ぐらいの年代を最後にどんどんなくなってますよね。大学の株式会社化が進むと、教員も個人プレー、個人の業績だけが大事だという志向になり、議論や意見交換をしたり、異分野から思わぬ示唆を得たりということがなくなってくる。競争が激しくなるほど、「自分のアイデアが盗まれて他人の業績になったら嫌だ」と考える人も増えるからです。
 私たちのころはまだ、大学は知の共同の場でした。大学院の先輩が総出で後輩の論文を清書してやる。その時に論文の不備を見つけて勝手に書き足したり、参考文献も加えておいたりするなんていうこともあった。その部分を口頭試問で聞かれたりして、後輩は戸惑うんですけど(笑)、そういう経験によって、自分の研究に何が足りないか気づかされ、一人前の研究者とはどういう水準かを教えられる。一般の人から見ると、なんていい加減なことだと思われるかもしれませんが、大学人の感覚でいえば、これってすごくいい話ですよね。

内田 知性というのは集団的に発動するもの。個人の業績や利益に還元されるものじゃない。教育もそうで、教員個人ではなく、ファカルティ=教員団としてやるものです。学風とか研究室の風儀とか言いますけど、それは僕らが名前も知らない先生たちが30年前や50年前から教えてきたことの結果としてあるわけです。研究成果だって、99%は先人からの贈り物なのであって、個人のオリジナリティなんてせいぜい1%ですよ。だから、お互いに刺激し合ったり、支援し合ったりして、知性を集団的に発動させる環境をどう作っていくか。それが大学において、いちばん大切なことなんです。


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