京都精華大学45周年記念事業ダライ・ラマ14世講演会

世界を自由にするための方法「宗教家と芸術家の視点から」ダライ・ラマ14世・よしもとばなな 講演会(2013.11.24.日曜日 国立京都国際会館 大会議場 [司会:レベッカ・ジェニスン(人文学部教員)])

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ダライ・ラマ14世 講演

よしもとばななさんの、ご自身の体験を通した人生のお話をとても興味深く聞かせて頂きました。できたら、もっと結婚生活の中でのもめごとなどエキサイティングなお話も聞かせて頂きたいような気が致しました(笑)。私たち人間はその人生の中で、時には幸せな思いをし、そして時には難しい問題に直面したり、悲しい思いをしたりしますが、これらはすべて人生の一部なのです。それは人生というものの本質です。これを私たちはサンスクリット語で「サンサーラ」(輪廻)といいます。私たちの人生の始まりは誕生であり、誕生したその時からいろいろな問題や苦しみを味わうことになります。最初は主に肉体的な苦しみで、精神的な苦しみはあまりありません。生まれたばかりの時はまだ脳が発達していないので、考えることは殆どないからです。

そして人生の終わりには死を迎え、家族とも、社会とも、愛する人との関係も全て終わります。他の動物たちでさえ死を恐れるのですから、私たち人間も勿論死を恐れます。生まれてから死を迎えるまでの長い人生の間に、私たちは様々な病気に苦しんだり、老いを体験しなくてはなりません。ちなみに私は今非常に健康な状態ですが、数年前に胆石の除去手術を受けました。石だけではなく胆嚢ごと摘出してしまいましたので、皆さんには一見健康そうに見える私も、人間としてのひとつの大切な臓器を失い、不完全な体しか持っていません。また、年を重ねるにつれて視力も衰えてきて、1年前に白内障の手術を受けています。ですから眼球の中に一枚のガラスを入れ、外側にはメガネをかけているという二重のガラス構造を持つ目になってしまいました。それに加えて膝の痛みの問題もあります。これらは自分が次第に老いていっていることを示すしるしであり、これが人間の生のサイクルというものなのです。

この地球を含むすべての銀河系にも始まりがあり、そして終わりがあります。それはごく自然なプロセスのひとつです。さらに私たちは、人間だけに与えられた考える能力を持つ素晴らしい脳を持っています。私たちには動物たちと違って深く考える能力があり、志があり、夢を持っています。それに向かっていくことで私たちは大きな希望を持ったり、あるいはそれを達成することができなかった時には、落胆して絶望してしまうといった心の浮き沈みも持っているのです。

私たちには「幸せ」と「苦しみ」という苦楽の体験があります。そして苦楽の体験には、ふたつのレベルが存在しています。第一のレベルは、私たちの五感を通して知覚される肉体的なレベルのもの。これは人間だけでなく、鳥なども含めて他のすべての動物たちと共通の苦楽です。そして、第二のレベルは純粋な意識作用によって生じてくる精神的な苦楽の感覚です。この純粋な意識作用によって生じる精神的な苦楽は、私たち人間だけが持っている考える能力によって生じるものであり、他の動物たちと比べると、肉体的なレベルの苦楽より遥かに大きな影響力を持っています。私が体験してきた肉体的なレベルの苦楽の話をしますと、私は16歳の時に自由を失い、そして24歳の時に祖国を失いました。それから54年間もの長い年月の間に、非常に多くの悲しいニュースが私の故郷であるチベット本土から届き、それを聞き続けなければなりませんでした。チベットだけでなく、世界中で非常に多くの暴力によるたくさんの殺し合い、苦しみが次々に起こりました。そして女性や子供など弱い罪のない人々がたくさんの苦しみを体験しなければならなかったことに対して、特に大きな悲しみを感じました。世界の多くの場所で、特にアフリカなどで何百万人の子供たちが飢餓や栄養失調で苦しみ、その家族も同様に考えられないような多くの苦しみを味わっていることを聞くと、それが自分に肉体的な苦痛を与えるわけではありませんが、非常に悲しい辛い感情をかき立てられます。そのような問題を個人の力で助けることはできず、絶望感に陥るという精神的な苦しみが生じます。

しかし、動物たちは、地球の裏側で何が起ころうとも、そういった精神的な思いによって自分の心の中に苦しみが生じるというようなことはほとんどありません。しかし私たち人間は、優れた知性と脳の働きによって、他者の幸せを心から望んだり、他者が苦しんでいる様子に自分まで苦しんだりするのです。そのような苦しみに心が打ちひしがれてしまうと、多くの心配や悲しみが生じて、健康面においても大きな影響が出てきます。心が悲しみに打ちのめされてしまうと、場合によっては自分の命さえ縮めてしまうことにもなってしまいます。このように、私たち人間の非常に恵まれた生には、とても多くの可能性が秘められています。たとえ精神的に悲しい出来事や辛い状況に直面したとしても、人間の知性にはそれを乗り越える力も備わっているのですから、それによって自分の精神力を高めていくこともできます。何かを失ったり、絶望したり、落胆したりという悲しいことが起きたとしても、それを自分の内面的な力や強さに変えて、自分をさらに高めていくための条件として使うことができるのです。ですから本当に心の底から、自分が抱えている問題や苦しみにチャレンジしようという気持ちを持っていれば、その苦しみを自分を高めていくためのよい機会として使い、勇気と自信を築いていくことができます。これは動物たちにはできないことであり、知性のある私たち人間だけができる大いなる可能性であり、潜在的な力なのです。

そこで2つの大切なことを覚えておいていただきたいと思います。ひとつは、私たちは人間としての優れた知性をフルに活かすことで、どんな辛いことに対しても現実的な態度でチャレンジすることができるということです。八世紀にインドに現われた非常に優れた仏教の導師であるシャーンティデーヴァ(寂天)は、「もし対処する手段があるならば、心配せずに対処すればよい。もし対処する手段がないならば、心配しても無意味である」と述べられています。これこそ現実的なアプローチのしかただと思います。

そして二つ目の大切な点は、私たち人間は他の人たちをやさしく思いやるあたたかい心を持つことができるということです。これは愛と慈悲という言葉に置き換えられますが、他の人たちの幸せを願う思いやりと優しさがあればあるほど、自分の心の中にとても大きな勇気が沸いてきます。自信を持つこともできます。そして勇気と自信が高められてくると、どのような困難に直面していてもそれにチャレンジしていく力を持てるようになるのです。

私の友人であるひとりのチベット僧の話をしましょう。彼は1959年以降に18年以上も強制労働収容所に入れられて、苦痛を受けてきたという非常に辛い経験をしました。1980年代の前半にたくさんのチベット人が親戚や友人たちに会うためにインドへ行く許可を得た時、彼にも許可が下りてインドに来ることができたのです。私は彼をよく知っていたので、彼と会って話をしました。私は彼に、「辛いことはありませんでしたか、危機を感じることはありませんでしたか」と尋ねました。私はもちろん彼の身に危険があったという話を想像していましたが、彼は「自分に害を与える役人に対して、慈悲の心を失ってしまいそうな危険を感じました」と私に話してくれたのです。つまり、彼は強制労働収容所の役人に対しても、そこにいる間ずっと慈悲の心を失わずに維持することができたということなのです。そしてその結果、彼の心は非常に穏やかで平和な状態でした。恐らく今は93歳か94歳になっていると思いますが、今でもその僧侶の心は非常に明晰で平穏な状態なのです。

以上で私の話は終わりです。このあとよしもとばななさんと対談したいと思います。時間があれば、聴衆の方々からの質問にもお答えしたいと思います。

(つづきますーダライ・ラマ14世・よしもとばなな氏 対談)