1967年5月19日に同志社大学で講演をしてもらうためだった。
Kenneth Rexroth (1905-82)はその当時,そして今でも,知るひとはすごく尊敬していたが,知らないひとはまったく知らない。彼はギンズバーグやスナイダーなど,ビート詩人たちの大先輩,理解者,スポークスマンとして,サンフランシスコで活躍していた。その彼が日本へ来るので東京と京都で朗読会をやりたい,という手紙が京都のスナイダーのところへ来ていた。これはぜひわたしたちの手で実現したいことだったが,どれくらいのひとが集まるかまったく見当もつかなかった。以下の文は,わたしたちのリトル・マガジンPoetry,19 (1967年秋)にのせたものである。
同志社での朗読会をかなりはやくから予約しておいたにもかかわらず,ほかの用事とぶつかるらしいので,直接あってはなしたほうがいいと神戸アメリカ文化センターのライマー氏から電話あり,彼といっしょに京都のゲーリー・スナイダー宅まで,あいにいく。1時の予定なのに,まてどくらせどあらわれず,ライマー氏は用事のためかえったあと,5時半ころあらわれる。
彼は大きなみどりっぽいチェックの模様の,士官学校の制服のように短く腰のところで切った上着をきて,黒いシャツに,黒いボウ・タイをして,ズボンはなんか,みどりか,カーキ色だった。立つと大きかった。秘書のティンカー女史がスケジュールをみるのをわすれて,お客さまをまたせたというので,ごきげんがわるかったが,5月19日の同志社の会はぜひやってもらわないとこまる,といいだしたら,すごい雷がおちはじめた。
あれほどはっきりノーといったのに,おまえがつたえなかったんだろう,そのために,なにもしらないカタギリさんにめいわくをかけて。ティンカー女史は"That's my fault,"のくりかえし。さらに雷はライマー氏におよび,あいつが,きっとつたえなかったんだ,あの裏切り者の,官僚主義の,CIAの,...それにあのジョージ・サイトー,おれを国際文化会館などにいれて,おれがああいう人種とひとつ屋根のしたでくらせるとおもっているのか,しかし,あいつにはいいところもある。たとえば...
と,いいほうのはなしに脱線し,ゼウスの怒りがおさまってきたので,それまでひたすら首をちぢめて,雷のとおりすぎるのをまっていたが,同志社が,ぼくのすむ神戸にあるようにおもっているらしいが,京都だから宿泊の不便はないことなど,わかってもらえた。彼は怒るとマユ毛の皮が目の上にたれさがり,目玉がとび出し,ダルマさんが八の字でにらんだのにそっくりになるが,あー,こわかった。それから1週間ぐらい,へんな頭痛がつづいた。
Poetry,No.19 (1967)