中尾ハジメ「環境ジャーナリズム」2001前期

このページでは,2001年度の京都精華大学 人文学部 環境社会学科の講義「環境ジャーナリズム」の公開をしています。「環境ジャーナリズム」は,環境文化コースの必修科目(2年次配当)で,中尾ハジメが担当しました。シラバスはこちらです。なお2002年の環境ジャーナリズムの授業公開についてはこちらをご覧ください。

環境社会学科の中尾ハジメ担当以外の授業公開については環境社会学科サイト内の「授業公開」をご覧ください。

「環境ジャーナリズム」の授業公開

第一回 環境ジャーナリズムとは...
環境ジャーナリズムの可能性を問うために,まず,そもそも「ジャーナリズムとはなんなのか?」を考えようとします。今回の主要な教材は,荒畑寒村著『谷中村滅亡史』 (岩波文庫)です。(2001年4月17日)
第二回 人間・荒畑寒村
新聞紙面に記事を見る私たちは,その向こう側にいる記者をどのようにとらえているのでしょうか。第一回に引き続き荒畑寒村を主な題材として取り上げ,彼の経歴を追うことで「記事」と「著者」の関係を考えます。(2001年4月24日)
第三回 ジャーナリズムは情熱だけではできていない
ジャーナリズムは物的存在であり,社会的存在であります。時代と共に変化するこれらの条件の中で生起するジャーナリズムに焦点をあてます。(2001年5月1日)
第四回 グーテンベルグの銀河系
活字を使用した印刷技術の登場は15世紀のことでした。以降,思想,政治,文学の存在をささえ,人々の生活に密着してきました。今回は明治時代の新聞社の勃興に焦点をあて,なお今回の授業では,これまでに提出された学生のレポートについてコメントをすることに時間をかけました。そのフィードバック・コメントも見ることができます。(2001年5月8日)
第五回 博物誌の視点へ
現代の環境問題に向かいあう思潮のひとつに,いわゆる自然保護の立場があります。その源流のひとつとしてヨーロッパの博物誌を見ることができる。ユーゴーがパリの政治世界から距離をおくことになってはじめてパリの下水道を「怪物(レバイアサン)の腸」ととらえ,歴史をたどりまた科学的知見を調べ書き記すことになったように,歴史家ミシュレは人間以外の自然に目を向けることになった。(2001年5月15日)
第六回 これまでの授業・ただの挫折か? 収穫か?
環境ジャーナリズムの授業も6回目。前期の半分近くの回数を消化したことになります。理解の進みぐあいを確認するために一度立ち止まり,学生たちには何が問題になっているか,中尾ハジメとの食い違い,すれ違いを抽出しようとします。(2001年5月22日)
第七回 つまづきは新しい知のはじまり?
前回の授業で,中尾ハジメの提示する資料に学生の多くがとまどっていることが浮き彫りになってきました。今回の授業では,もういちどこの問題に立ち止まってみました。(2001年5月29日)
第八回 様々な視線を受け継ぐ
チコ・メンデス(1944-1988)ブラジルのアクレ州ではでは約50万人の人々が野生のゴムノキから樹液を採取することで生計を立てている。しかし牧畜産業が雨林を破壊しはじめ,チコ・メンデス(右の写真)は採取保護区を確立しようと闘った。非暴力の抵抗をつづけたメンデスは暗殺されたが,牧場や開発計画による被害の深刻さを世界中に知らせることになった。(2001年6月5日)
第九回 ジャーナリズムとプロパガンダ
第一回目の授業から引きずっているテーマに「事実」か「主張」かという問題があります。学生の間には,新しい問題意識として,ジャーナリズムがものごとを伝えるのは「間接」か「直接」かという疑問が生まれたようです。この問題を整理することになるかどうか中尾ハジメは「ジャーナリズム」と「プロパガンダ」を対置させ,考えてみようと問題提起をします。プロパガンダに対する位置づけではジャーナリズムは一方的教化ではなく「言論の自由」に属する活動だと主張しようとします。(2001年6月12日)
第十回 情報は劣化しない。情報は創造される
ジャーナリズムにとって事実とは何か。ジャーナリズムの主張とは,いったい何か。情報を伝えるとはどういうことか。そもそも情報とは何か。いよいよ,こういった根源的な問題に近づいてきたようです。今回は学生たち自身のレポートの文章を素材に,レポートの書き手が「統合力」を持った「人間」であることを例示しながら,ジャーナリストが情報を劣化させる存在でなく,情報を創造する存在であるという視点を喚起します。(2001年6月19日)
第十一回「情報」の正体!
情報化社会では,自分の部屋にいても,必要な情報は瞬時に手に入れることができる。あるいは,情報はあふれており,人がするべきことは,適切に選択するだけだ。── はたして,そうだろうか? 実際の原子力発電所の事故をめぐる情報のありようから,この問題を考えてみる。そこには,「情報の劣化」が顕著な機械の世界があり,また情報のすばやい拡散と同時に情報の中央集権や操作があり,私たちの社会はそのどちらの問題にも対応することができていないように思われる。このような状況のなかで,「情報は創造される」という主張は内実を持ちうるのか,社会的な力になりうるのだろうか。今回の授業では「情報化社会」の通説を疑い悩むことを薦める。(2001年6月26日)
第十二回 「語り口」とジャーナリズム
いよいよ,ジャーナリズムにおける「事実」と「主張」という難問に触れなければならない。情報は創造され,しかも創造の担い手は結局のところ人,つまりジャーナリストである。ジャーナリストはいかにして「事実」を「事実」として「主張」するのか。ジャーナリスト一人ひとりは独特の語り口,あるいは文体での創造活動に従事する。いまから300年前にイギリスの小さな幽霊事件を報じたデフォーの語り口を検証する。また1945年8月6日の広島を伝える重松静馬の日記と,それにもとづく井伏鱒二の仕事を読み,「事実を伝える」とは何かを考えようとする。(2001年7月3日)
第十三回  前期授業の総括
前期授業をふりかえって,いったい一連の授業から学生の意識のなかに何が生まれたのか,もしくは何が変わったのかをとらえようとする試み。または反省。(2001年7月10日)
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