第2章 大学での履修のしかた


  1. 4年間を通して何を学ぶのか ── 研究テーマの設定
    1. 何を学びたいと考えて、本学に入学したのか
    2. 学部・学科の開講科目一覧を知る
    3. 研究テーマの設定
  2. 勉強はいつ、どこでするのか
    1. 「授業」について
    2. 「単位」の意味
    3. 大学では予習・復習が不可欠
    4. 能動性、主体的問題意識こそが大事
  3. 卒業要件と学士号
    1. 卒業要件
    2. 学士号とは
  4. 大学生は日々、どのようなキャンパス生活をおくるのか
    1. 1年間に40単位まで
    2. 1日の授業は2つか3つ
    3. 学生仲間同士での議論
    4. 研究室を訪ね、教員と議論する
  5. インディペンデント・スタディーという学び方
    1. 制度的な側面
    2. 自分の関心・問題意識に基づいて、まとまった学習・研究ができる
  6. プロジェクト・スタディー
  7. 「基礎教育科目」とは?
    1. 評判の悪かった「般教」
    2. 本来は、非常に高度な内容と意義を有する教養教育
    3. 本学の「基礎教育科目」がめざすもの
    4. 「基礎教育科目」はいつ、どのように履修するか?
    5. 語学について
    6. 「情報リテラシー」について
  8. 日本語リテラシー
  9. 専門演習
  10. 総合研究演習
  11. 調査演習
  12. 学部共通専門教育科目、ワークショップ科目、学部間交流科目
  13. 4年間の履修計画表の作成

(1) 4年間を通して何を学ぶのか ── 研究テーマの設定

まず、当たり前のことから確認するが、大学は基本的に4年間在籍する(最長在籍可能期間は、特別の理由がないかぎり8年間)。

後ほど説明するように、履修が学年指定されている科目もあるが、この4年間、1年目、2年目…と在籍年が進むにつれて、どういう科目・内容を学んでいくかは、(高校までのように)大学から指定・指示されるものではない。大学が開講している科目一覧をしっかり認識、理解して、自分自身で「履修計画」をたてなければならない。

皆さんは、この「入学セミナー」期間中に、とりあえず1年目の「科目履修登録」という作業をしなければならないが、その作業に際して、「とりあえず1年目のことだけ考える」というのではダメだ。

「大学4年間を通じて、自分は何を学ぶのか」を考え、4年計画の概要を作成したうえで、その1年目として1回生時の「科目履修登録」を考えることが必要なのである。そのためには、どんな作業が必要か、を考えよう。

【1】 何を学びたいと考えて、本学に入学したのか

まず、<自分はそもそも、何を学びたくて京都精華大学人文学部を選び、入学したのか>──この原点に立ち戻ってもらいたい。

なかには、「精華は第一志望ではなかった」とか、「ただ何となく大学進学したので、そんなにはっきりした目標があるわけではない」という人もいるかもしれない。そういう人は今からでも遅くない。「大学で何を学ぶか」をよく考えてみよう。自分一人で考えていても、明確な考えが浮かばないという人は、早速、基礎ゼミ(「社会メディア基礎演習」、「環境社会基礎演習」、「文化表現基礎演習」のこと)の担当教員と個人面談で話し合ってもらいたい。

【2】 学部・学科の開講科目一覧を知る

みなさんには『履修のてびき』と『Syllabus2004』というものが配布されている。

『履修のてびき』では、科目履修登録の手続きや各学科の卒業要件、開講科目一覧などが書かれている。『てびき』を読むことで、大学で学ぶにはどういう手続きが必要なのか、各学科でどんなことを学ぶことが出来るのか、どんな科目があるのか、どんな教員がいるのか等々を知ることができる。

また、『Syllabus2004』は、開講される科目について、その科目の狙い、授業内容、成績評価の基準、担当教員から受講生への要望等が書かれている。全科目を読もうとしたら、膨大な量でとても一気には読めないから、必修指定されている科目、自分が関心あるテーマを扱っていると思われる科目を中心に目を通すとよいだろう。

【3】 研究テーマ(卒論テーマ)の設定

京都精華大学人文学部の3つの学科はいずれも、「卒業論文(卒業制作)」を必修科目としている。「卒業論文」こそ、大学4年間の学生生活、学習活動の集大成なのである。「卒論」は自分のテーマを自ら設定し、書く。

逆に言うと、この「卒論」に向かって1回生から一歩、一歩、前進していくのだということになる。

だから、自分は4年後、どんなテーマの卒論を書くのかを考えてみてほしい。もちろん、大学に入学したばかりだから、今すぐ卒論テーマを決めろ、と言われても困るだろう。「決めろ」ということではない。もう少し丁寧な言い方をすれば、大学でどんなテーマに関心をもって学んでいくのか、を明確にしようということである。大学での研究テーマを設定するのだと言ってよいだろう。

もちろん、「一度決めたら、変更できない」という性格のものではない。しかし、「変更」というのは、「元のプラン(考え)」があるからこそ必要ともなるし、また可能になるものだ。

大事なことは、大学での履修は受け身であってはならないということである。自分自身の問題意識、目的意識をしっかりと確立することを心がけてもらいたい。

(2) 勉強はいつ、どこでするのか

【1】「授業」について

京都精華大学はセメスター制をとっている。各科目が1年間ではなく、前期、後期それぞれ半年間で完結するシステムである。そして、それぞれの科目は(一部のものを除いて)基本的に取得単位が2単位となっている。

高校にも「単位」という名称があるが、大学の「単位」というのは、本学に即して説明すると、次のようなことを意味する。

最も多い科目タイプである<講義科目>で説明すると、

【2】「単位」の意味

さて、大事なのはこの先だ。【1】の説明では「90分の講義×15回〜16回」で「2単位」と思われるだろう。

ところが、そうではないのだ。大学設置基準というものを定めた法律を見ると、「1単位とは、講義1時間に対して自宅学習(予習・復習)3時間を合わせた週4時間」とある。これを字義どおりにやろうとすると、ひょっとすると睡眠時間も確保できない、ということになってしまうかもしれない。また、私たちは「法律で定められているから勉強する」わけでもない。

しかし、ここではっきりさせたいことは、「単位取得」は、「講義に出席して試験に合格すればよい」ということではないということである。大学での勉強には予習・復習が不可欠なのだ。

【3】 大学では予習・復習が不可欠

「えっ! 予習・復習は高校までで、大学はもっと“自由”なんじゃないの?」なんて思っている人はいないだろうか。

たしかに、日本の大学生はこれまで「勉強しない人」の代名詞のようになっていたという現実があるのも事実である。しかし、こういう現実は、もう変わらなくては、変えなくてはならない。京都精華大学は「予習・復習」を求める。

テキストが指定されている科目、参考文献が紹介されている科目では、予めテキストや参考文献を読んで講義に臨むことが必要である。また、講義内容は、授業時間に教員の話を聴いているだけで理解できるというものでもない。講義を聴きながら、自分の知らなかったことや、「?」と思うこと、関心をもったことをノートする、そして講義終了後、情報館や自宅で、そのノートを見ながら、講義内容を反芻し、理解を深めたり、疑問点を抽出したりする作業が必要である。これが復習であり、次回の講義にむかっての予習ともなるだろう。

【4】 能動性、主体的問題意識こそが大事

以上の話でとどまると、なにか、いやいや勉強させられている、という印象があるかもしれない。そうではない。もっと積極的な考え方でいこう。

この「入学セミナー」の一貫したテーマだが、「問題意識を明確にして、自ら学ぶ」ことこそが大学(大学生)の根本である。

京都精華大学人文学部は、2003年度の社会メディア・文化表現の2学科開設と環境社会学科の1期生卒業を期に、カリキュラムの抜本的な見直しをおこなった。学生諸君がどういう関心、問題意識をもって入学してくるか、その関心や問題意識に応えるにはどんなカリキュラムが必要か、環境社会学科の4年間の成果をふまえて一層の充実を図る。こういうことを考えて新カリキュラムを作成した。

つぎは、皆さんが考える番だ。(もちろん、大学はさらに研究を重ね、不断にカリキュラムの改善を図るが)

自分の関心、問題意識に合致する科目、また、それらを学ぶ前提として修得が求められる科目を選定し、1つ1つの科目に明確な問題意識をもって臨む。そのとき、各講義にたいして、「ただ授業に出る」というのではなく、「こういうことを学びたい、知りたい」ということを考え、能動的姿勢で臨むことになるだろう。そうすると、先程言ったような「予習・復習」は当然のものとなるはずだ。

(3) 卒業要件と学士号

【1】 卒業要件

大学では4年間を通して、124単位を取得することが求められる。もちろん、124単位を超えて、より多くの単位数を取得することは構わないが、取得単位数が124単位未満だと卒業することはできない。ただし、ただ数だけ揃えればよいということではない。後に詳しく説明するが、本学で開講されている科目には、「基礎教育科目」、「学科専門教育科目」、「学部共通専門教育科目」等の区分があり、それぞれの区分毎に最小限必要とされる単位数が指定されているので、その条件を満たす形で124単位以上を取得することが必要である。

この124単位以上の取得が「卒業要件」となるわけである。

【2】 学士号とは

大学は「学問する場」だと繰り返し言ってきたが、その観点から言うと、上記の卒業要件を満たすということは「京都精華大学での学問を修めた」ということを意味する。その意味で、本学人文学部で4年間学び、124単位以上を取得した人には、「学士(人文)」という学士号が授与される。昔は、世間で大学卒業者を「学士さま」と呼んだのは、それゆえなのだ。

皆さんは、小中高を卒業した時、「卒業証書」というものをもらったことだろう。入学したばかりの皆さんに、卒業式の話をするのは早すぎるかもしれないが、大学の卒業式で授与されるのは「卒業証書」ではなく、「学位記」というものである。

「18歳人口の50%以上が大学進学」という時代になって、「学位」や「学士」といったことを口にする人は少なくなっている。また、「学士」というものに、世間でことさらの価値があるとは認められなくなっているともいえる。しかし、「大学卒業=学士になる」ということの意味、意義を改めて噛みしめてみることは必要なことだろうと、私は思う。

(4) 大学生は日々、どのようなキャンパス生活をおくるのか

さて、ここまで大学での履修のしかたの基本、概要を話してきたが、今度は、「日々、どれぐらいの時間、授業を受け、キャンパス生活をどのように過ごすのか」という視点から、履修のしかたを話していきたい。

京都精華大学では、基本的に月曜日から金曜日までは朝9時から夕刻5時50分まで6校時の授業時間が設定されている。土曜日は一部の科目を除くと、朝9時から12時10分までの2校時。

しかし、高校までのように、朝から夕刻まで、毎日6校時の授業にびっしり出席するというのではない。

【1】 1年間に40単位まで

さきほど、卒業要件124単位と言ったが、これを4(年)で割ると1年あたり31単位ということになる。4回生は就職活動もあって大学キャンパスを空けざるをえないこともあるだろうし、また何よりも卒業論文の執筆は大変な時間と労力を要するから、4回生ではあまり多くの科目を履修することはできない。そこで、大学は学生諸君に1回生から3回生まで、1年間で最大40単位分の科目を履修し、単位取得するように指導している。逆に、1年間で40単位を超える単位数の科目登録、単位取得は認めていない(ただし、たとえば、1回生時に32単位取得にとどまった場合は、(40−32)+(2回生の)40=48単位分の科目登録、単位取得が認められる)。

【2】 1日の授業は2つか3つ

1年間で40単位ということはセメスター制の下では、単純計算すると、一つの学期(前期または後期)には20単位までということになる。

そして、基本的には1科目=2単位だから、20単位ということは10科目ということになる。これを週5日ないし6日で受講するわけだから、1日あたりにすれば2科目、多くても3科目ということになる。

もちろん、皆さんが受講しようとする科目がどの曜日に置かれているかによって、ひょっとすると1日は4科目も受講するという日が例外的にありるが、それはあくまでも例外的な場合だ。逆に、ある曜日はまったく受講する科目がないということが起こる場合もありえる。

このことは、「大学生は暇がいっぱいあっていいなあ」ということを意味するわけではない。先程話した「予習・復習」ということを思いだしていただきたい。大学での勉強は、ただ授業に出席していればよいという性格のものではない。「朝から夕方まで、ずっと授業に出っ放し」というのでは、とても講義内容を自分のものにすることはできない。また、1回生の場合、先程紹介した「基礎ゼミ」では、毎週レポートの提出や、「レポート発表」が求められる。その準備には結構の時間が必要で、朝から夕方まで授業にばかり出ていたのでは、そういう作業をすることができない。

大学には、高校とは比較にならない広いスペースの図書館(本学では情報館と呼ぶ)があるが、それも学生がレポートを書いたり、「発表」を準備したりすることを考えてのことである。

【3】 学生仲間同士での議論

1日に受講する授業がせいぜい2〜3科目というのは、上記のように「予習・復習」等のためだけではない。それと同じぐらいに大事なことがある。その1つは、学生同士で色んな議論をすることで、これは非常に大切な意味をもっている。

もちろん、学生同士の付き合いは、色んなことを「駄弁る」という要素も大事だが、それだけでは大学生としては物足りない。やはり、大学で学んでいることをめぐって、あるいは様々な社会的・文化的事象をめぐって議論することが不可欠だ。「大学は受け身ではなく、能動性、主体的問題意識が大切」と言ったが、それは一人ぽっちで孤独に何かを考えるということではない。大学キャンパスという空間を最大限有効に活かして、学生同士で議論しながら、問題意識を育んでいくのだ。

「学生同士の議論」は、同学年の学生同士だけにかぎらない。ある意味で、それ以上に大きな意味をもつのは上級生と議論することだ。

戦前の旧制高校の学生は「学生寮」で夜を徹して、難しい哲学論議をしたと言われている。実際、その世代の人たちから話を聴くと、「徹夜の議論がいちばん充実していた」と言われる。その物まねをしようというわけではないが、学生同士の議論というものは本当に意味のある、大事なことだと思う。

【4】 研究室を訪ね、教員と議論する

もう1つ大事なことは、教員に質問したり、教員と議論したりすることである。

講義の時に質問するのも、もちろんOKだが、時間に制約がある。研究室での質問は大歓迎。

質問だけではない。教員と1対1で、あるいは友達と誘い合って研究室を訪ね、教員と色んな話をする。これもOK。

もちろん、教員は教員で、授業、研究、校務等、かなり多忙な日々を過ごしているので、学生に突然訪ねてこられても対応できないという場合がある。

そこで、各教員が「オフィス・アワー」というものを設けている。「オフィス」とは研究室のこと。そして、「オフィス・アワー」というのは、学生が教員の研究室を自由に訪ねてよい時間を意味している。いつが、「オフィス・アワー」なのかは、一覧表が発表されるので、それを見て、各教員の「オフィス・アワー」を確認してもらいたい。

もちろん、個々の教員と親しくなり、色々と話すことが多くなってきて、その教員との間で約束が出来れば、「オフィス・アワー」以外の時間であっても研究室を訪ねることができる。

さらに、研究室を観察していると間もなく気づくだろうが、上級生の中には、一日のかなり多くの時間、ゼミの教員の研究室にいて、そこで勉強をしているというケースがかなり見られる。

他大学の学生に聞くと、「研究棟なんて、恐ろしくて近づかない」ということをよく聞くのだが、京都精華大学はそういう大学ではない。もちろん、研究室とは、その名の通り、「教員の研究のための部屋」だから、学生の単なる「談笑の場」になっては困るが、「近づかない」というのもまた大きな問題である。大学で何かを学び取るいちばん大事な場は教室ではなく研究室、ということも言えるかもしれない。

(5)インディペンデント・スタディーという学び方

京都精華大学は、2004年度から「インディペンデント・スタディー」という考え方を本格的に打ち出し、制度的にも確立することにした。

「インディペンデント」とは英語のindependentである。英和辞書をひけば、independent researchで「自主研究コース」という訳語が出てきて、「優秀な学生が講義に拘束されず教授の指導のもとで行う」と説明されている。この考え方を創造的に適用して、京都精華大学が独自に考案したものである。

すなわち、1989年の人文学部開設以来のフィールドワーク等の経験・蓄積、さらに2000年開設の環境社会学科での調査演習と卒業研究−卒業論文の経験・蓄積をベースにしたものである。とりわけ、環境社会学科での調査演習の実績を高く評価し、その学び方、研究方法をさらに全面的に発展させていこうとするものである。

【1】 制度的な側面

まず、カリキュラム制度の側面から説明しよう。

学生は1〜3回生時に「総合研究演習」というものを選択履修することが出来る。これは6単位である。しかも、「総合研究演習」はそれとワンセットの講義科目が2科目(4単位)指定されるので、実質的には10単位である。

3回生は後期に「調査演習」という科目があり、これは18単位である。「調査演習」も選択科目だが、これを選択すると、3回生後期の半年間、他の科目はいっさい履修せず、この「調査演習」に専念する。

そして、4回生は全員必修の科目として、卒業研究に取り組む。卒業研究のゼミと卒業論文(または卒業制作)で合計10単位になる。

以上の「総合研究演習」、「調査演習」、「卒業研究」をすべて合わせると計38単位となり、卒業要件の124単位の約3分の1近くになる。

これは日本の大学のあり方としては画期的なものである。その「画期性」を次の項で説明しよう。

【2】 自分の関心・問題意識に基づいて、まとまった学習・研究ができる

日本の大学制度では卒業のための要件として124単位を取得することが法的に決められている。どの大学も、この決まりを破ることは許されない。そして、最近では、京都精華大学もそうだがセメスター制を採用することが一般化しているため、学生は基本的に1科目2単位の授業を次々と履修し、単位を修得していくことが大学での学習の基本となっている。

しかし、これは、学生が自ら主体的に「学問する」という考えからみると、けっして望ましい形とは言えない。率直に言って、「ただ単位を揃えるためだけに履修する」というケースが出てくる。あるいは、もっと積極的な側面から言えば、「充分な時間をかけて、じっくり本を読んで思索を深めたい」とか、「自分が問題意識をもっているテーマを追究するために、かなりの期間、キャンパスを離れてフィールドワークをしたい」といったことを、非常にやりづらくしている。

そこで、「学生各人が自らの関心テーマ、問題意識を徹底的に追究することが可能となる履修システムを創りたい」という考えで考案されたのが、「インディペンデント・スタディー」という考え方・制度なのである。

(6)プロジェクト・スタディー

京都精華大学は、2004年度から「プロジェクト・スタディー」という考え方を導入する。

これは、人文学部のカリキュラムにある複数の科目を組み合わせて、ある問題を総合的に調査・研究することや、大学卒業後に社会で活躍できる確固たる能力・技能を育成することを目指すものである。

具体的な事例を紹介する方がわかりやすいであろう。

「ある問題を総合的に調査・研究する」ことの事例としては、「岩倉プロジェクト」というものを構想している。

これは、種々の専門領域を専攻する人文学部の教員の総力を結集して、京都精華大学の地元・岩倉地区について様々な視点・切り口から調査・研究するプログラムを編み出し、学生がその調査・研究に取り組むものである。岩倉地区は歴史の古い地域であり、また自然環境に恵まれた地域である。また、1990年前後のバブル期の「開発ラッシュ」の波にもまれた地域でもある。この岩倉地区を学問的研究の対象とし、かつ地域の持続と発展のために役立とうと考えた場合、単一の学問分野からの接近だけでは不可能である。学問分野で言えば、環境学や民俗学、歴史学が必要であろうし、政治学や経済学、社会学も必要になる。そして、本学で言えば、社会メディア、環境社会、文化表現の3つの学科が一体となって取り組むことが必要になる。

そういう意味で、3つの学科の学生が共同して取り組み、教員も3つの学科の教員が学科の枠をこえて指導にあたるものとして岩倉地区の調査を展開したいと考えているのである。そして、この調査は、カリキュラム的に言うと、「国内現地研究」や「総合研究演習」の枠を使って実施され、参加した学生はそれらの科目の単位として単位を取得することができる。

他方、「大学卒業後に社会で活躍できる確固たる能力・技能を育成する」ことの事例としては、環境社会学科の「環境教育指導者養成プログラム」や「環境マネジメントシステム(EMS)構築プロジェクト」がある。この2つの詳しい内容はここでは略するが、前者は日本には未だ存在していない「環境教育指導者」の認定システムを京都精華大学がパイオニア的に開発するものである。また、後者は、すでに2002年度、2003年度の「環境マネジメント実務演習」を基軸として大きな成果をあげており、自治体や高校・中学校でのEMS構築のしごとを本学の学生が担い、社会的に高い評価を受けている。

プロジェクト・スタディーはこれだけに尽きるものではない。今後、さらに「編集者養成プロジェクト」等を開発していく予定である。また、学生諸君にも積極的に新しいプロジェクトの構想を提案してもらいたいと考えている。

(7)「基礎教育科目」とは?

さて、本学のカリキュラムの構成についての具体的な説明に移ろう。『履修のてびき』にある「卒業要件表」を見ながら、説明を読んでいただきたい。

一番上に「基礎教育科目」という固まり(群)がある。ここから4年間で30単位以上を取得することが必要だと記されている。

この「基礎教育科目」とは、いったいどういう性格のものなのか。

【1】 評判の悪かった「般教(パンキョウ)」

これは、ふつう、他大学などでは「一般教養科目」と呼ばれている。これまでは、多くの大学で学生諸君の評判が非常に悪かったものだ。学生は「一般教養」を略して「般教(パンキョウ)」なんて、蔑視的に呼んでいるようである。

また、一昔前までは、大学の4年間は「前半2年は教養教育、後半2年が専門教育」というふうに区分され、初めの2年間は基本的に「一般教養科目」しか学べないという仕組みになっていた。国立大学などでは、「教養部」という組織が存在し、学生もはじめの年間は教養部に属して、そこでの単位取得を済ませてから学部に進学するという形になっていた。

しかし、1991年に文部省(当時)が「大学設置基準の大綱化」ということをすすめ、1年次から専門(科目)教育をどんどん進めてよいことになり、また教養科目のあり方については各大学で相当程度自由にやってよいことになった。その結果、国立大学で教養部の解体、新学部への改組が進められたのも、この時である。

ところが、最近、この「大綱化」以降の教養部の解体に象徴される動きへの反省、批判の声が大学関係者を中心に高まってきている。「教養教育が軽視、解体されてしまった。教養教育の再建が必要だ」という意見である。

いったい、どういうことなのか。

学生の間で教養科目の評判が悪かったのは、「高校の繰り返しのような内容が多い。自分達は大学で専門的な勉強がしたくて大学に入学したのだ。早く専門科目の勉強がしたい」というような主張からであった。また、大学教員の間では、教養部制度のある国立大学などでは、教養部所属教員と学部所属教員の間に隠微な差別関係があり、学部所属教員は教養部所属教員を「一級下の者」のように見下すという、良からぬ風習もあったようだ。さらに、財界・企業関係者が、「国際競争に勝てる優秀な人材を育成するのは専門教育の充実を」と言って、教養教育を軽視する傾向もあったようである。

【2】 本来は、非常に高度な内容と意義を有する教養教育

しかし、いま、教養教育の再建が主張されつつある。

じつは、教養教育というのは、非常に高度な内容と意義をもつものだと言わねばならない。

大学教員の間などでは、しばしばこういうことが言われる。「専門科目は大学院を修了して間もない若手でも担当することが出来る。しかし、教養科目はその学問分野の第一人者であるような、学問的蓄積の十分あるベテランでないと担当できない」と。先程紹介した「教養部所属教員への差別・蔑視」という話とは矛盾する話だが、真実と言うか、認識として正しいのは、「その学問的蓄積の十分あるベテランでないと教養科目は担当できない」という方である。

話はちょっとそれるようだが、「新書」というものがある。岩波書店の「岩波新書」というのから始まったものだ。「岩波文庫」が古典作品を揃えているのに対して、新たに書き下ろされた一般読者向けの啓蒙書、教養書の提供をめざして創刊されたものであった。最近出版されているものは赤い表紙だが、戦後30年間ぐらいは青い表紙で、私たちは「青版」と呼んでいる。これには『社会科学の方法』という本とか、さまざまな、今となっては「古典的名作品」と言うべきものが多数ある。今でも大きな書店に行けば売っているし、情報館には基本的に全冊揃っている。そして、その著者を見ると、大塚久雄とか、丸山真男とか、戦後日本を代表する著名な学者がずらっと並んでいる。

これらの人は、経済学や政治学等々の学問分野を代表する人たちだ。だから、含蓄が深い。その学問分野、あるいは学問全般について非常に造詣が深く、多くのことを知っているし、理解の度合い、思考の度合いが深い。だからこそ、一般読者にはよく分からない専門用語をやたらと並べるのではなく、逆に、誰にでも分かる平易な言葉、表現で、非常に高度な内容を著すことができる。最近の新書は粗製濫造でよいものばかりとは到底言えないが、「青版」は本当によいものが多かった。

【3】 本学の「基礎教育科目」がめざすもの

「教養」とは何か、ということを議論しはじめると、それはそれで大変な議論になるので、避けるが、本学の「基礎教育科目」がめざすものは、比喩的に言えば、いま紹介した「岩波新書・青版」(レベル)の実現にあるのだと言える。

別の言い方をすると、学生諸君が様々なテーマ、関心について専門的に学んでいくうえで、必須不可欠な素養、視点、方法(論)を得ることのできるもの──それが「基礎教育科目」であり、教養科目である。

もう少し具体的に話してみよう。たとえば、「哲学の歴史」という科目がある。「いやあー、オレは哲学なんて関係ないや。第一、なんか難しそうだし、いまどき、『哲学』なんて…」と思う人が結構多いかもしれない。たしかに、「哲学者」と言われる人たちは、浮世離れした「難しい」議論ばかりしているようにも見える。しかし、そもそも人類の歴史を振り返ってみると、たとえば古代ギリシア文明の時代、哲学とは学問のことを意味した。近代に入って以降、次第に学問が諸分野に分化しはじめ、自然科学と社会科学・人文科学への分岐、さらに後者の中での経済学や法学、政治学、社会学等の学問分野に分かれていくが、大元は哲学なのである。言い換えれば、「言葉を話し、ものを考える動物である人間」は古代以来、どういうことに関心を抱き、どんなことを考えながら、現代の社会や文化を形成するに至ったのか──このことを知る・理解するには、哲学、その歴史を知る、学ぶことが不可欠なのである。

私は環境社会学科所属の教員なので、環境問題を例にとると、現在の地球環境問題の根っ子には、人間が自然を「征服の対象」、「征服可能なもの」と見てきたという問題があると指摘する人が多くいる。環境社会学科の環境問題を専門とする教員の中にも「環境思想」「環境哲学」といったことを専門にしている人がいるが、そういう「環境をめぐる思想・哲学」ということを中心に勉強したいという人だけでなく、たとえば環境マネジメントを専門的に学びたいと考えている学生も、じつは「人間は古代以来、どういうことを考えてきたのか、自然をどのように捉えてきたのか」ということについて学んでいてこそ、世間でよく言われる「専門バカ」ではなく、「教養ある社会人」として専門家としての仕事ができる人間に成長することができるのではないだろうか。

さらにまた、こういうことも言える。

種々のテーマ、関心を追究しようとするとき、少なくとも近代以降、種々の学問分野で切り拓かれてきた学問的な蓄積をふまえなければ、自分の関心、視野だけに限定された、非常に狭いものの見方、考え方しかできない。哲学、歴史学、経済学、政治学、社会学等々で蓄積されてきた理論や方法論を理解していてこそ、広い視野・視点、的確な方法論をもって問題を検討することができる。私は以前、もう間もなく大学を卒業しようという学生と話していて、その学生がマックス・ウェーバーやデュルケムという社会学者の名前すら知らないという現実にぶつかり、唖然としたことがある。私が問題にしたいのは、高校までのテストで問われたような「歴史上有名な人名についての知識量」のことではない。現代の学問に依然として大きな影響を与えつづけているウェーバーらについて学ばないで、この学生は、いったい、どうやって自分の関心テーマを学び、研究することができたのだろう、ということなのである。

学問や研究というものは、ただ自分の主観を並べ立てているだけでは成り立たない。何人をしても理解せしめることのできる「論理性」や「科学性」あるいは「客観性」を有する議論を展開することが求められる。しかし、同時に、社会科学や人文科学の分野に特有の困難がある。社会科学や人文科学においては、自然科学のように実験室で実験を行なって「理論の正しさ」を客観的に実証してみせるということが出来ない。それどころか、社会科学や人文科学では様々な社会的・人間的事象を観察・分析の対象とするわけだが、観察・分析する者自身が、じつは観察・分析する事象の一部を構成している、という厄介な構造がある。そのことを言いかえれば、観察者・分析者の主観というものの存在をどのように考えるか、扱うかという問題が、避けがたく出てくるということである。この問題は、ある意味では今でも解決されていない、永遠の学問的方法論のテーマだと言っても過言ではない。

人文学部で学ぶ以上、このようなことを考えることがどうしても必要になるのだが、この方法論の問題を考えるうえで、ウェーバーという人が『社会科学の方法について』という書物などで議論していることは、一度はきちんと読み、考えておかなければならないものなのである。そういう意味で、私は先程、「大学卒業間際になって、ウェーバーという名前も知らないことに驚いた」と言ったわけである。

【4】 「基礎教育科目」はいつ、どのように履修するか?

「基礎教育科目」は30単位以上を4年間で取得すればよいわけだから、一昔前の「前半2年で『基礎教育科目』30単位を履修する」というように考える必要はない。

たとえば、3回生後期の調査演習、さらには4回生で卒論研究がいよいよ具体化する段階になって初めて、「自分は社会学を学んでおく必要がある」と自覚するに至る、ということもあるかもしれない。その場合は3回生あるいは4回生になってから社会学を履修するのでも構わない。

しかし、全般的に言えば、専門科目の多くに「2回生以上」という学年指定がかかっているので、どうしても1回生の時に「基礎教育科目」を多く履修することになる。

また、2003年度から導入したことなのだが、「基礎教育科目」で各学科が履修を指定しているものがある。これはそれぞれの学科での専門科目の学習の前提・基礎として、最小限必要な科目を指定しているものである。

また、皆さんは2回生の後期から「専門演習」(ゼミ)を履修することになるが、これは自分の関心あるテーマの研究を指導してくれる教員を選択することでもある。その教員が「私のゼミを選択するのであれば、「基礎教育科目」の○○○を必ず履修しておくように」と注文を出している場合がある。これは『シラバス』で各教員の「専門演習」のページを見ればわかる。この点にも注意を払って、科目の選択をしてもらいたい。

【5】 語学について

「基礎教育科目」には語学科目があり、全員必修となっている。1回生は英語(留学生の場合は日本語)が必修で4単位、さらに2回生は自分の学びたい語学科目で4単位を取得し、計8単位を取得することが必要である。

語学については、一点だけ強調しておきたい。

「英語必修」と聞いて、「もう英語はウンザリ。『英語』と聞くだけで嫌だ」と思っている人たちへのメッセージだ。

自分の興味、感心、問題意識を発展させていこうとすれば、いずれ必ず英語の必要性を強く認識するときが来る。「英語はウンザリ」という人は、中高のどこかでつまずき、「英語嫌悪症」「英語拒否症」になってしまっている。「嫌だ」という気持ちを隠して、「必修だから、やむなく出席だけする」というのは苦痛である。その嫌悪や拒否の原因が何なのかを解明し、のりこえていくという積極的な姿勢がほしい。教員はそれをサポートする意思をもっているので、是非、相談をしてほしい。

なお、英語力がある人はプレスメント・テストの結果、一定以上の得点があれば「英語 I」、「英語 II」の単位が自動的に認定され、英語力の一層の向上をめざして、より上級の英語にチャレンジすることができる。海外でのフィールドワーク準備や、英語文献の読破にむけて積極的に取り組んでもらいたい。

【6】 「情報リテラシー」について

「学部共通専門教育科目」に「情報リテラシー I、II」という必修科目がある(ただし、これも一定レベル以上の力がある人は「単位認定」され、受講が免除される)。

これはパソコンの運用能力を養うための科目で、まずWORDやEXCEL、インターネットを使えるようにすることが目標として設定されている。詳しくは第5章の「レジュメ・レポートの書き方」で述べるが、本学では、一定の時期以降、レポートや論文はワープロで作成・提出することを求める。また、その提出について、教員の指示によって「メールで教員へ送る」ことを求めることもある。したがって、「情報リテラシー」でそれらの運用能力をマスターすることは、本学での履修にとって必須不可欠のものであることを心得ておいてほしい。

(8) 日本語リテラシー

京都精華大学は、2004年度から「日本語リテラシー」という科目を新設した。2004年度は限定された人数(90人)を対象とするが、2005年度からは1回生全員の必修科目とする予定である。

「日本語リテラシー」という科目名称からは、日本語を母語としない人を対象とする日本語教育の語学科目を思い浮かべる人もいるかもしれないが、この科目はそういうものではない。対象は日本語を母語とする学生である。そして、内容的には、「考えるための日本語」の教授・訓練を狙うものである。「日本語リテラシー」の授業担当者から提起されている「授業の基本方針」では、この科目の「目標」はつぎのように述べられている。

  1. 各学生の内発的な関心を触発し、それを適切な言葉にする能力の育成
  2. 様々な言語情報を的確に理解し、自らの思考の発展に役立てる能力の育成
  3. 【1】・【2】の能力を組み合わせつつ、ルールに則った論説文を作成する能力の育成

「目標」に記されていることを、もう少し敷衍してみよう。

大学での学びの出発点となるもの、そして4年間を通してもっとも大事なものは、みなさん一人ひとりの関心・問題意識である。

ところが、日本の小中高の学校教育は「一人ひとりの関心・問題意識」を喚起し、育てるようなものには、残念ながら、なっていない。いや、むしろ、そういうものを押し潰してしまう傾向があるとすら言えるのではないだろうか。

その結果、自分が感じていること、考えていることを“言葉”にして表現するということが出来ない、苦手だという学生が少なくない。また、そういうことが好きだという人も、自分の考えを言葉で表現したものを教員や学生仲間に読んでもらい、感想や意見を言ってもらうという機会がほとんどないまま、大学に入学したのではないだろうか。

そこで、上記の【1】の「目標」が提起されているのである。

つぎに、【2】について考えてみよう。

大学での学びの中心の1つは、やはり文献を読むこと、理解することである。大学での学びには、もちろん、授業で教員の講義を聴くこと、現場に出て(=フィールドワーク)種々の調査を行ったり、体験したりすることなど、他の方法・形態もある。しかし、テキストなどの文献を読む(読み解く)力が弱くては、講義の理解も充分なものとはならない。また、現場調査に出ても、そこから問題を発見し、自分で考えることが充分には出来ないだろう。そこで、「様々な言語情報を的確に理解し、自らの思考の発展に役立てる能力」を培うことが大事となるのである。

さらに【3】である。大学での4年間の学びの到達点には「卒業研究」−「卒業論文」がある。また、そこに至るまでの過程で種々のレポートを書いたり、調査演習を履修して報告書を作成するなど、“書く”機会が数多くある。

ところで、みなさんは中学校、高校の6年間の過程で、いったい、どれぐらいの文章を書いたことがあるだろうか。日本の大学生は、「小学校の時は作文を結構書いたけれど、中高ではほとんど作文なんて書かなかった。夏休みの宿題で、読書感想文をいやいや一度か二度、書いたぐらい。原稿用紙の使い方も忘れてしまった」という人が非常に多い。もちろん、学校のテストなどで「論述式問題」に解答したという経験はある程度あるだろうが、あれはいわば「正解が決まっている」もので、“自分の考えを他者に伝わるように書く”というものではない。

だが、大学で求められるもの(──そして社会活動の中で求められるもの)は、まさにこの“自分の考えを他者に伝わるように書く”ことである。

「日本語リテラシー」の到達目標はそこにあるのである。

(9) 専門演習

人文学部は3学科のいずれでも、2回生後期から「専門演習」がある。

「専門演習」は全員必修で、3回生後期の「調査演習」(これは選択科目)、さらに4回生の卒業研究−卒論に直結する、最も重要なものである。

「専門演習」は普通一般的には「ゼミ」と呼ばれる。全員必修とはいっても、全員が同じ講義を受けるのではなく、自らの関心テーマ、問題意識に即して、担当教員を選ぶ。そして、「演習」では教員が講義を行なうのではなく、学生が研究報告・発表をすることが軸となる。この「専門演習」について、現段階で3つの点を強調しておきたい。

第1点は、1回生の時点から、2回生後期にどの教員の演習を選ぶかを考えはじめてほしいということである。どの教員の演習(ゼミ)を選ぶかの選択=仮登録の時期は1回生の後半であるが、講義や研究室訪問などを通じて、自らの関心テーマや問題意識に合致する教員は誰なのかを研究してほしい。

第2点は、先に「基礎教育科目」をめぐって「専門演習」担当教員による履修指定科目がありうることを指摘したが、さらに専門教育科目についても同様に指定があることである。とくに環境社会学科では、どの教員の専門演習を選ぶかによって所属コースが決まり、それによって履修すべき科目が大きく規定される。

第3点は、2回生後期の演習(ゼミ)選択が大きくは卒論指導教員をも決めることにつながることを認識しておいてほしいということだ。もちろん、2回生後期の演習担当教員と卒論指導教員が異なることはあり得るし、認められるが、しかし、それは基本的には例外的なケースだと認識してもらいたい。

(10)総合研究演習

総合研究演習は2004年度から新設されたものである。先に「インディペンデント・スタディー」の説明で触れたものである。

これは次項で説明する「調査演習」が2002年度、2003年度と大きな成果をあげてきていることをふまえて、あるテーマの調査・研究にかなりの時間を割いて取り組める機会を増やそうと考えたものである。「調査演習」に取り組む前段としての意味も持ち得るであろう。

「総合研究演習」の場合、調査・研究のテーマは教員の側から提示する。ただし、テーマ設定は、学生諸君の関心や問題意識を充分に見ながら、おこなう。また、「総合研究演習」の場合は、「調査演習」とは違って、複数の学生が共同チームで調査・研究に取り組む場合もある。

新しい試みなので、「総合研究演習」の可能性は、学生諸君がどのような取り組みをするかに大きくかかっていると言ってよいだろう。

(11)調査演習

3回生後期に「調査演習」というものがある。

これは京都精華大学人文学部カリキュラムの最大の“目玉”とも言えるものである。選択科目なので全員が履修するわけではないが、京都精華大学にせっかく入学した以上、是非チャレンジしてほしい科目である。この科目の基本的な事柄を4点、提起しておこう。

第1点は、これが18単位という非常に「大きな」科目だということである。

「調査演習」を履修する場合、3回生後期はこの演習だけに専念することとなり、他の科目はいっさい履修できない。これは、海外や国内でのフィールドワークに出かけ、半年間、完全にキャンパスを離れることも想定される科目であるから、当然の措置である。たとえ大学キャンパスを拠点に調査・研究活動を行なう場合でも、この演習に徹しなければ、この演習で目指している調査・研究を全うすることはできない。だからこそ「18単位」なのである。

第2点は、京都精華大学人文学部が創設以来掲げてきた「現場主義」──フィールドワーク──を実践するメインが、この「調査演習」だということである。

従来、人文学部ではタイ、オーストラリア、アメリカでの海外フィールドワーク・プログラムを実施してきたが、2003年度の2つの新学科開設を契機に、このプログラムの見直しをおこなった。従来のプログラムは、その基本的内容を大学が準備し、10〜20名の集団で渡航して実施するものであった。これは人文学部が開設された1989年の段階では他大学に類を見ないユニークなものであったが、現在では多くの大学が取り入れるところとなった。しかし、それに伴って、「長期海外旅行」的な色彩も濃くなってきている。京都精華大学が「国際主義」、「現場主義」という基本理念で目指しているものは、そのようなものではない。

京都精華大学が「現場主義」で目指しているものは、一人ひとりの学生が自らの問題意識、調査・研究テーマをもって現場に飛び込んでいくことである。この原点を真に貫くには、従来の「集団行動」スタイルから脱皮し、文字通り一人ひとりが自分でテーマを開拓し、フィールドに飛び込むことが必要である。そこで、集団でのプログラムは発展的に解消し、「調査演習」で個人海外長期フィールドワークをおこなう方針に改めた。すでに環境社会学科では2002年度、2003年度、そうした取り組みが実施された。相当に困難の大きいプログラムではあるが、意欲ある学生は決然とチャレンジしてほしい。

ただし、いきなり一人で長期にわたる海外フィールドワークを行なうことには、確かに困難、無理がある。そこで「短期海外フィールドワーク」プログラムを用意するので、1回生、2回生時に、そのプログラムに参加し、海外フィールドワークの訓練をするのが望ましいと考えている。

第3点は、「調査演習」は海外フィールドワークに限られるものではなく、国内フィールドワークや、文献資料調査を中心とする研究もあることである。

大学時代に半年間、自らが選び設定したテーマの調査・研究に没頭するというのは、非常に得がたい経験であり、そこから得るものはとてつもなく大きいと言える。「調査演習」として、どのような調査・研究がありえるのか。2002年度、2003年度に実施された環境社会学科の調査演習のテーマ一覧が参考になるであろう。それを別表に示してあるので参考にしてもらいたい。

第4点は、「調査演習」を選択する学生は、卒業研究−卒論も「調査演習」と結びつけて考えてほしいということである。

「調査演習は調査演習、卒論はまたまったく別のことをやる」というのでは、十分に踏み込んだ調査・研究とはならないであろう。

以上の点をしっかりとふまえて、「調査演習」に積極的に取り組んでもらいたい。

(12)学部共通専門教育科目、ワークショップ科目、学部間交流科目

人文学部のカリキュラムには、各学科の専門科目と並んで、学部共通専門科目というものがある。名称が示す通り、人文学部生ならば学科の如何を問わず、履修できる専門教育科目である。ただし、卒業要件124単位中の単位数としては制約があるから注意してもらいたい。

この学部共通専門教育科目を設けた理由は、各学科には固有の専門性があると同時に、第1回で述べた「リベラル・アーツ」としての人文学部という観点と、学際主義の基本理念から、学科を超えて人文学部としての共通性があるし、なければならないと考えたことにある。

とくに学部共通専門教育科目の一環であるワークショップ科目には、どの学科で学ぼうとも、そこで学んだことを社会にむかって発表しようとするならば、当然必要とされる表現技法の実践的修得をめざす科目が多数含まれている。たとえば、環境社会学科で学んだことを発信しようとすれば、編集技法やドキュメンタリー制作の技法が必要ななる場合があるだろう。自分の研究の成果をどのように活かしていくのか、また卒業後の進路との関係でどういう技法が求められるか。そういったことを考えて、科目選択をしてほしい。

なお、ワークショップ科目は実際に実技を行なって表現技法を修得するケースが多いので、その授業は「週1回」という形ではなく、5日間の集中型や、土・日曜日、あるいは休暇期間を活用する形で、集中的に開講されることになる。2004年度からの開講なので、具体的な細部は今年度の半ば頃に発表される予定である。

また、「学部間交流科目」というものがある。これは、たとえば芸術学部の開講科目を人文学部生も受講することができるということである。

(13)4年間の履修計画表の作成

ここまで「大学での履修のしかた」をめぐって、学部全体に共通することで大事な要点に限って述べてきた。各学科固有の問題は、学科の履修説明をしっかり聴いてもらいたい。

さて、「大学での履修のしかた」がある程度理解できたら、是非ともやってもらいたいことがある。それは1回生時の科目登録に先立って、自分が4年間でどのような関心、問題意識=研究テーマをもって、どういう科目、専門演習を履修するのかについて、概略の構想を練ることである。この冊子に付録としてつけた「4年間の履修計画表」を使って、考え、書いてみてほしい。その作業をやってこそ、1回生でどういう科目を登録・履修すべきなのかも明確になるだろう。

作成した「4年間の履修計画表」は基礎ゼミの指導教員に見てもらい、計画の妥当性、履修規程の誤解はないかどうか等について教員の意見を聴いてもらいたい。

原本作成日:2004.04.24; 最終更新:2004.04.24;
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