日本の大衆文化を知る
差別の問題について考えています。
あなたは差別をしたことがありますか?あるいはされたことは?いま差別の問題は、差別する側・される側の両方の視点から考えるのが主流です。だけど両側の視点から考えるとなると、どちらにも言い分があり、問題を突き詰めて考えることができない。そう思って、どちらかの立場になって差別の問題を考えることから始めたんです。そこで自分自身の要素を考えてみると、「男性」、「大学の教師」、「日本に住んでいる日本人」など、非常に差別をする可能性がある要素を秘めている。自分がわかるのは、"差別する側"からの視点なのではないかと考えるようになりました。では、どうしたら差別問題を解決することができるだろうか。いろいろと研究していくうちに、「多文化主義」という考え方に注目するようになったんです。
お互いの差異を尊重しあい、豊かな社会を作っていこうという考えです。
この研究をするため、多文化主義社会だと言われているオーストラリアのメルボルンに1995年から1年間住んでみました。現地では、まわりの人からの視線を感じないことに驚きましたね。
というのも、オーストラリアはまだまだ白人社会。有色人種の私は異質な存在なんです。でもオーストラリアでは、違うことが当たり前のよ
うに受け入れられていたんです。逆に日本での白人に対する視線は、と思いましたね。言葉という点から見ても、「人種」「性」「障害者」など、物事をあるカテゴリーに当てはめ、その中に入らない違ったものを隔て、排除してしまいます。多文化主義はその逆。違ったものを受け入れようという考え方なんです。この考え方が一般的になると、ひょっとすると差別を少しずつでも減らしていけるかもしれないなと思っています。
研究室の中でぶら下がっていた自転車。サイクリングが好きなのだとか。
たとえば、いじめで悩んでいる高校生がいますよね。近頃は、「いじめる人間がいるからいじめがある」という理屈が多少は通るようになってきたけれど、依然として学校のなかでは「いじめられる側にも、"何か"の原因があるでしょう」という考えがあります。ですが、その場合の"何か"は「違い」のことなんです。違いがあるからいじめるというのは、差異を排除しようとする行為。「差別」なんです。いじめられる側に何かがあるからいじめてもいいと考えるのか。いじめられる側に何かがあってもいじめないのか。さあ、どちらを選択しましょうか?という問題です。
私の考えとしては、異なるということは差別の根拠にされることが多いけれど、異なることによって好奇心が湧いたり、人間関係が豊かになることもある。排除するよりも、受け入れるほうが自分にとってもプラスになるんじゃないかな。学生たちや高校生にはそんなことを伝えたいですね。
山口 康介KOSUKE YAMAGUCHI
人文学部 3回生
私自身も、中島さんの「人権教育論」という授業を受けたことがあり、内容は非常に興味深いものでした。
時折、自分の心の中にも人を差別しようとする気持ちが働いていることに気づかされることがあり、「その気持ちはどこから来てるものなのかなぁー」とつらつら考えながら受講していましたね。中島ゼミの学生に何人か知り合いがいるのですが、みんな勉学に課外活動に積極的な人ばかり!こんな素敵なみんなを指導している中島さんは、一対一で喋るとどんな人なのかな?・・・ドキドキ! そんな気持ちで取材をしたのですが、中島さんの明るく、はっきりした人柄からは、研究に対する熱い好奇心が伝わってくるようでした。