[MA][MB] 第10回 マルルビデオアート賞(2000〜2002)入選入賞作品集
ドイツ、マルル(Marl)市で開催されているドイツ国内のビデオアートのコンペティションから、20年を記念して2002年にゲーテ・インスティティートによってパッケージ化された作品集。現在は、「マルル・ビデオ・インスタレーション賞」も開催されている。
<上映プログラムの中のビデオ作家:Jan Verbeek, Hartmut Jahn, Bjorn Melhus, Matthias Mueller, Harald Schleicher 他>
 MAプログラム
 MBプログラム

[MA] プログラム(約1時間45分)
Jan Verbeek
「Skip and Return」(2001年, 27秒) <最優秀賞>

 27秒、33のショット:ワン・ストーリー。

<審査員によるコメント>
 時には27秒は、物語を語るに十分である。Jan Verbeekは、喜びで空に向かって叫びながら、石から石へ跳びはねる。再び突然地上に着地するまで。30のショットは自由と生きる喜びに満ちているが、最後のカットでそのトラップ(策略)・スナップは閉じる。つまり、母の腕に捕らえられた息子。
「Skip and Return」は、彼が溝や壁や通りや広場を飛び越えることを意味する。そして結局、彼はスタート地点に戻ってくる。子供の遊びは、コミカルでもあり悲劇的でもあるが、終わりのないループの中で何度も何度も自ら繰り返すありふれた物語である。Jan Verbeekは、小さな手段を用いて大きな跳躍をする。ワンフレームは多すぎず、思いあがったトリックではない。ちょっとパンチの効いたジョークである。
おそらく我々は、このように見るべきである。つまり、Jan Verbeekは、「簡単な履歴書を送って下さい」というリクエストに答えて我々に--贈物でさえあった-ビデオを送ったと。
Beate Geissler / Oliver Sann
「Shooter」(2000-2001年, 16分)  <優秀賞>

 このプロジェクトのためにいわゆる“LANイベント(LAN=Local Area Network)”が2000年の始めから開かれている。コンピュータネットワークが構築され、ゲームソフト(主にQuake ・ Area)でプレーする間、その参加者は"Ego Shooter"あるいは"First Person Shooter"として関係しながら撮影された。
 様々なサイズのネットワーク(computer LANs, institutions, Internet)が検討された。そしてチャット・チャンネルから撮影されるためにプレーヤーが選ばれ、招かれた。プレーヤーは、このイベントのために様々な職業分野から選ばれた。
 ひとつの命の持続する間(約2分)、各プレーヤーがゲームに参加している様子が見せられる。各人の能力に依存するが、平均してプレーヤーは、5分から10分続くポイントゲームで25回、命を失う。いままでに トータルして9回イベントが組織され、54人のプレーヤーが1年半の期間に撮影された。

<審査員によるコメント>
 様々な人たちがいつも同じカメラ位置で前から観察される。彼らの眼は、その観察するメディアに単に向けられているのではなく、むしろ徹底した注意を必要とするものに向けられている。固定したマシンに向けられている顔の表情から、出来事が想像される。同時に限られた時間の中でのダイナミズムと内的なドラマによって特徴づけられる。『Shooter』は、5分から10分続くポイントゲームのヴァーチャルな戦場でお互い殺し合うため、世界中のチャンネルやチャットルームのネットワークに接続された様々な職業分野、社会的背景からのプレーヤーを見せる。アウトサイドの観察者は、結果の伴わない生死のゲームの目撃者となる。容赦のない正確さとともに、『Shooter』は、試験的なフォーメーションとして、仮想現実と生きた現実との間の矛盾をドキュメントする。プレーヤーがビデオ記録の焦点である。彼らはメディア批判である本質的な分析のための投影面として取り扱われる。視覚情報のネットワークにおいて、ビデオとコンピュータのメディア的差異がはっきりと述べられる。つまり、アクションとリアクションとのストーリーの中で、その特殊な社会的、文化的、社会経済的な事実と状況をともなうもの、また観察者の中に意識化される知覚の弁証法をともなうもの。
 『Shooter』は、その明快な構造、その厳格な編成、また認識に向けられた概念の論理を通じて確信させられる。
Hartmut Jahn
「Jingle Jungle」(2000年, 7分18秒) <優秀賞>
Composition: Lutz Glandien/Typography: Robin Sander/
Assistant: Ana C. Fernande
 
TVネットワークのコマーシャル(jingl)が番組を切断する。そしてそれ自体が番組となる。それらは番組情報として、番組のプロモーションとして役立つ。
 ビデオ作品『Jingle Jungle』において、私は再結合し、絵と音をこれらのコマーシャルのひとつに加える。その断片自体も利用され、同時にその機能が奪われる。自律して呼吸するために、あるいは絵に新しい命を吹き込むために。イメージと音の勢いは、TVのネットワーク・ジャンルよりも強い。

<審査員によるコメント>
"jingle"(この場合、チャンネルARTEの“国への愛“というテーマの夜の番組のために制作されたが、美的に構造化され、内容的に開かれている短いTVコマーシャル)からスタートしながら、Hartmut JahnとミュージシャンLutz Glandienは、その連想力と高度な美的クオリティオーのために印象的なストーリーをこのすばらしいビデオ作品において脱構築した。その印象的で正確に編集されたイメージは、注意深く作曲されたサウンドトラックとともに格言ふうの物語の流れを形作っている。いわゆる“第3世界”と西洋による優勢的支配に関する政治的社会的側面を反映しているようにみえる。金属のように曲がった耳状のものがあるとうもろこし畑、半分布で覆われたしわの寄った老人の顔、大地を耕す木のくわ、武器をもった兵士による見るからにこっけいなダンス、暗い雲が迫ってくる大平原、この平原を大股で歩く男女の衣装---これらすべてが憂鬱な雰囲気を形づくるために組み合わされ、忍耐と恐怖と希望の物語を語る。コマーシャルの再編集されたバージョンは、その象徴的な性質を失い、新たに繰り返し引用された場所で、それは乱された領域の生活のためのメタファーとなり、イメージ、言葉、音を加えることによって強調され拡張される。このようにしてHartmut JahnとLutz Glandienは、誇張された侵略と空虚なプロパガンダを超える視覚的また同様に音響的に得心のいくような作品の制作に成功している。
Bjorn Melhus
「The Oral Thing」(2001年, Loop 8分10秒) <特別賞>

 作品『The Oral Thing』は、いわゆる午後のテレビのトークショウでなされたやっかいな告白についての短い作り話である。数百万のTV視聴者に対して自ら出演する人々の救済の約束は、しかしながら、めったにさなれない。これ以上に、それは製品を広告するためのメディアとしてネットワークの側で用いられる娯楽文化の感覚の欲望を満足させる。
 身体的行動は、これらのショウで提起されたトピックであるが、通常、出演した人の身体から分離されているように見えるし、オーラルなTV文化の“トーキング・ヘッズ(talking heads)”の言葉に還元されている。

<審査員によるコメント>
 Bjorn Melhusは、作品『The Oral Thing』で特別賞を受賞した。アメリカの午後のTVトークショウで見られるパブリックな告白についての風刺作品である。彼の痛烈に皮肉なビデオ・ループ作品は、クイズ番組や音楽番組、TV宗教番組、処罰の儀式のミックスとして人々による日々の性生活を暴露する。それはメディアによる代理的達成に関するこれらの告白の中で演じられた行動を提供する。すべてのものの上に輝く白いマスター的存在者、トークショウの司会者である高位の聖職者である彼の心臓は広告のロゴマークにあわせて拍子をとり、腕や腹部のない球状の存在者として象徴的に見える二人の幼児らしい出演者から犯罪や近親相姦や非行についての告白を強要する。このループ作品は、残酷で涙をさそうインタープレー、質疑応答のメカニズム、数百万の道徳的な視聴者の立場、また話し手と被害者の立場をまとめてミニマライズする。憤りのパヴロフ的コーラスの中で、司会者がステージから“大変驚きました”と大声でいうと、スタジオの観客は衝撃をうけ、すべての刺激に反応する。二人の出演者は、ディスプレーの上に置かれ、結局、迷う。勝者はTVネットワークと宗教的狂気である。ビデオの中で現れるすべての人物は、作者自らによって演じられている。Bjorn Melhusは、彼自身によって発明された風刺的なビデオのジャンルを単に例外的な方法ではなく、策定する。彼はメディアアートとともにメディア批評も探究し続けている。
Jung-Min Bae 
「Als ich einmal da ware...」(2002年, 2分40秒)

 夜、部屋は明るく照らされた。外のすべてのものが見えないままであった。そして窓の中に私は自分自身を見るだけである。しばらくして部屋のあかりが消される。一方、玄関口は、いまや明るく照らされている。
 外側から私は部屋の暗い内部を見ようとし、何かを発見しようとする。しかし、私はそこに何も見ることができない。
Peter Becker / Stefan Holmeier
「Bollywood scratches」(2001年, 4分30秒)

 『Bollywood scratches』は、電子イメージと電子音の研究領域からのアナログ/デジタル・パフォーマンスである。 ビデオアーティストでありVJのPeter Beckerは、ミュージシャンでDJであるStefan Holmeierによるミニマルな電子音のサウンドトラックの中に二つのビデオ信号をミックスする。つまりインドの古典と現代のBollywoodミュージカルから取られたループが重ねられ、大都会やテクノクラブからの抽象的な光跡とともにリアルタイムに再アレンジされる。
 このビデオアーティストの制作方法は、そのDJのそれと類似している。音響的・視覚的インパルスは、光と音、抽象とモチーフ、ジェスチャーとペーソスの相互作用の中で互いに影響しあい、また崩壊する。Peter BeckerとStefan Holmeierは、ミュンヘンの国際的に有名なテクノ・アヴァンギャルド・クラブ Ultraschallと共同で、プロジェクト“high flyer--電子イメージと電子音の研究”において数年間一緒に活動している。
Sandra Draschaft/Marc Thurow
「"P.I." personal identity/pedro ines a dance performance」
(2001年, 11分40秒)

 メディアを利用したダンスパフォーマンス「P.I.」の出発点は、人体とメディアの中でのその複製の検証であった。この場合、それはダンサー・Pedro Inesである。次の問題が検討された。つまり、メディアの中の複製だけで緊張感を生み出すのに十分であるのか?現実のパフォーマーあるいは身体がメディアの中のパフォーマーによって置き換えられるのか?
 ダンサー・Pedro Inesは、実際にはパフォーマンスの中には現れない。彼のダンスする身体は、ビデオと音の助けによって検証される。つまり、我々は彼の毛の生え際から彼の爪先の先まで、彼の筋肉の動き、息づかい、語りや汗の状態からダンスまで、彼の“イメージ・スキャン”と“サウンド・スキャン”から知覚した。撮影はドイツのカールスルーエのアート&メディアテクノロジーセンター(ZKM)のスタジオで行われた。イメージと音は、可動の牽引式バーに吊るされた機材(ビデオスクリーン、モニター、スピーカー)に移され、空間内の“身体的”要素として制御され、機能した。パフォーマーの“腕”の延長として、ビデオや音と一緒に作品のドラマツルギーを支配した。観客席が島のように部屋の真ん中に置かれたので、聴衆は視覚的聴覚的にこの“身体”によって囲まれていた。
Cornelia Erdmann
「7 Minuten zum Thema Thankstelle」(2001年, 6分50秒)

 “…私は思っていた以上に、ここで多くの時間を費やしたと言えるだけだ。18、19、20、21、そして22才まで、私はこの年齢までぼんやり過ごすことがかっこいいと思っていた。というのも私の全ての友人もそうだったから。私たちのガソリンスタンドはllmenau市の入口にある。
 ガソリンスタンドの右側は草原、左側も草原。正面にはllmenau市の境界を示す標識があり、向こう側には、チップス・スタンドがある”
Sven Harguth
「Move」 (2001年, 3分11秒)

 ひとりの女性が仮想の部屋でダンスする。
Min Kim
「URI」(2001/2002年, 4分39秒)

 私は観客とパフォーマーの間の距離に興味がある。というのは、このパターンが社会における相互関係に転嫁されるからである。政治家と著名人は公の場に現れる。一方、大衆は、公的な眼で彼らと同一視しながら、自らを内的に動かされることを認めながら、またしばしばパブリックなパフォーマーの意見を十分に取り入れながら、見る観客である。
Susanne Kutter
「Moving day」 (2001年, 28分14秒)

 仮設コンテナーの中にリビングルームを作り上げた。その後、コンテナーはトラックに載せられ、新しい場所へ輸送される。その移送中、リビングルームの家具類が動き始める・・・。
水色の生地で覆われた丸く膨らんだ天井灯が飾り房と一緒に優しく前後に揺れる。キャビネットの棚の上に順序正しく置かれたビールやワイングラスが、コンテナーの奥の方で次々に落ちる。重い木製の戸棚のドアが正午のラッシュアワーのリズムに合わせて開閉する。道路のカーブで戸棚が前の方へひっくり返り、広く開いたドアに寄りかかって、中のものが空になる。そしてカーブを過ぎた後、元の位置に戻る・・・。同時に多くの小さな劇的なシーンが起こる。新鮮なチューリップのブーケは、もはやリビングルームのテーブルにその位置を維持することはできなくなり、カーペットの上に落ちる。カーペットの青い部分に水がゆっくりと花瓶から流れ出る。比較的ダメージもなく壁の棚から落ちた大きな植木鉢は、床の上を当てもなく転がる。赤信号で心和む教会の鐘の音が近くで聞こえる。空中に渦巻くほこりの粒子が、背後からの光の中できらきら輝く。
 トラックが大きな穴の上を走るとき、戸棚は揺れ始め、バランスを失う。戸棚の重さがちょうど反対側にある机にぶつかる。机はその圧力に耐える。フックにしっかりと吊り下げられているいくつかの額縁が壁の上でがたがた鳴っている。コンテナーが目的地に到着し、降ろされるまで、水色の布の天井灯は、ずっと左右に揺れている。その後、ゆっくりとスイングを止める。


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[MB] プログラム(約1時間)
Eric Lanz
「Eingriff」(2001年, 11分01秒)

「Eingriff」は一種のテレビゲームのシミュレーションであり、目に見えないプレーヤー(クリックの音だけが聞こえる)が二つのスクロールメニューを操作する。画面の左に花や食べ物やおもちゃのような日常のものが置かれ、右にさまざまな道具類が並んでいる。プレーヤーはその二つのメニューをリンクさせる。この組み合わせが適していようとなかろうと、選択した道具が選んだものに効くように用いられるシークエンスをもたらす。作品では、シンボルと効果的な操作のレベルで可能な出来事の間をクローズアップで絶えず切り替わる。
 しかしながら観客はこの対話に介入できない。それを理解し予想することによって、知的にその行為に関わるだけである。この種の検証は、新しいコンピュータ・ベースのメディアを取り扱う我々の方法を観察するために興味深い距離を提供する。
Bernd Mattiebe
「Let's play-visual culture」(2001年, 12分30秒)

 夢か悪夢の視覚化、あるいは単に日頃の混沌か?絵、テキスト、音楽、言語の断片など、あらゆる方向から流れ込む影響。平凡なものと劇的なものの相互作用。観客はその関係を理解し、整理して秩序付けようと試みるが、その量が見るものを圧倒する。それは絶望的に見える(あるいは絶望である?)。時間は無限に(無限に長く)なる。
 13分の長さそして結局、恐らく残った唯一のものは、何かを体験したという感情、あるいは過剰に満たされ理解できない感情、そして最後に(居間で)静かになった喜びである。
Matthias Muller
「Phantom」(2001年, loop 4分48秒)
 By courtesy of Galerie Volker Diehl, Berlin

 ぼんやりした人影。彼らの本来の物語は失われ、幽霊のように映画の部屋に彷徨う。
継ぎ目なく繰り返すループの中に捕らわれ、物語の間の影のミステリアスな世界の中の不死。
Claudia-Aline Muller-Hermamnn Ruth Katharina Scheel
「Annum Per Annum」 (2001年, 3分45秒)

 自らの認識に捕らわれていたので、主人公はポラロイドカメラで写真を撮ることによって、克服しようとする絶えず繰り返す現実を体験する。
Bianca Rampas 
「Signy Rindsmagen (an Icelandic fairy-tale)」
(2001年, 5分24秒)

 これはシグニー姫の物語である。姫は牛の胃袋に変えられ、王子に救出されるまで、この状態でずっと彷徨わねばならない。このアイスランドの童話は、フェミニストの視点から語られた、蛙の王子物語のある種の逆バージョンである。
Anke Schafer
「Ich brauche deine...」(2000年, 20秒)

「ICH BRAUCH DEINA AUGEN (君の目が必要) 」が、背後から画面上に赤い糸で刺繍される。もはや読めない言葉の穴が「ICH BRAUCH」と「DEINA AUGEN」の二つの線の間で見られる。これはこのビデオの始まりで、何もない白い画面とともに、その真ん中に小さな穴が見える。観客の情報への欲望は、ヴィジュアル・コミュニケーション (ICH BRAUCH DEINA AUGEN) の基本に直面する。同時に、見られること、“認識されること”への願望が反映される。刺繍針で穴を開けることの背後にある意図は、スクリーンの表面に穴を開けたいという意図であるように思える。しかし、それでもやはり、それは、テクスチャーの一部のままである。
Harald Schleicher
「WAHRE WORTE -BOSE BILDER-RAUHE RHYTHEN」
(2001年, 7分55秒)

「Wahre Worte / Boese / Bilder / Rauhe Rhythmen」は、ドイツの首相についての一見止められない躍進と突然の失脚に関する実験的なビデオ作品である。ビデオは、Helmut Kohnの個人的な運命だけに関わるものではない。権力、メディアと道徳性の反映であり、氷のような冷淡さと愛国心の反映でもある。グロテスク、そしてコミカルでもあり、悲劇的でもある。
Nora Schmidt
「hoch hinaus」 (2001年, 1分20秒)

 アニマル・ハウスの2匹の犬の生活について。
Reni Scholz
「Platzkonzert」 (2001年, 2分24秒)

 (「彫刻のイベント」(by Reni Scholz, 1998, Siegburger Stadtmuseum)に関するテキストから引用)... 彼女の基本的な考え方は、発見される前の芸術作品と写真がいつも現実の背後に隠れたままである、ということである。芸術家はそれらを持ち出して、意味の新しい文脈の中におく。このような理由で作者は、彼女の芸術的な努力を地理学者や征服者によってなされた地球の未知の領域への発見の航海と比較する。
 私の関心は、我々が通常見逃しているもの-はかなく過ぎ去る理解できないもの-、日常生活の中の一見単純な普通のものである。消え去ってほしいもの、我々を困らすもの、溶けて消滅するもの。私は、それらの不思議で神秘的な側面を探求する。
Anna Werkmeister
「Still in move 2」 (2001年, Loop 15分20秒)

 ハチが巣から離れては、また飛んで戻る映像。夏の灰色の空を背景に撮られている。1分半後には反転イメージと音のデジタル編集(変形、増幅)処理された1分半に画面が移行(ワイプ)し始める。そして再びオリジナルのクリップに戻る。音とイメージは等しく重要であり、瞑想的な共生を生み出す。現実、幻想、そしてエレクトロニクスは、互いに流れ込み、それなりの時空間の知覚を規定する未来派的なフィクションを形作るように溶け合う。


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[DA][DB] 「ドイツのアニメーション・フィルム」展よりアニメーション作品集
「ドイツのアニメーション・フィルム2004」展が京都精華大学のギャラリー・フロール(10/6〜25)で開催され、ドイツのアニメーション作品の上映プログラムとその原画やアニメーションのセットまた人形が展示紹介させる。アニメーション作品の上映は、前半の会場である「Studio KINO」では、ビデオで上映され、後半の会場となる「京都ドイツ文化センター」ではフィルム上映を予定している。
<上映プログラムの中のアニメーション作家:G. Alkabetz, L. Henkel, A. Kaiser, R. Krumme, J. Kuhn, C.Stenner&H.Wittlinger 他>
 DAプログラム
 DBプログラム
[DA] プログラム(約1時間)
Gil Alkabetz
「ルビコン川」(1997年, 7分)
 イスラエル出身のGil・Alkabetzは、アラブとイスラエルの対立の問題を、 "沼地"というモチーフを用いそしてルビコン川が流れる彼の幼少期の景色への憧憬の中で、 穏やかな詩的イメージとして描いている。例えばルビンコン川を渡る狼と羊のように。
 そうしたイメージの中で作家は、反感というものが変わらぬかたちで状態で存在し続けることを、 もしくはささいなことが悲劇の引き金になりうるかもしれないということを暗に示しているのだ。
Jochen Ehmann
「放浪者」(2000年, 7分48秒)
 Jochen・Ehmannは、過去30年間の作家活動を通し、芸術性に優れ、 極めて完成度の高い一貫した描出方法で作品を創り上げてきた。まるでドラフトマン(製図者)のように作品をうみだす、 彼の独自性の表現スタイルは、最近のトレンドやファッションと一線を画し、 国際的フェスティバルのアニメ部門において異彩を放っている。 『放浪者』もそういった彼のスタイルで創られた作品だ。 この作品では、完璧な芸術的要素と正確な視覚的要素によって悲劇が描かれる。 その悲劇は、単調なシーンの連続によって構築されるのだが、その中に彼は観客に向けた明確なメッセージを内包しているのだ。
Lars Henkel
「パッチワーク・クイーン」(2001年, 2分30秒)
 Lars Henkelは『パッチワーク・クイーン』を紙素材を用いて作り上げた。 それによってHenkelは斬新かつ鮮烈な効果を産み出すことに成功した。 この作品のなかで、その効果やHenkelの企図が如実に現れるのは、 傷心した主人公The patchwork queenが元気を取戻そうとするシーンだ。 ここでHenkelは、紙素材ゆえに可能な「縫う」という方法で The patchwork queenの傷ついた心を回復させようとする。 しかしThe patchwork queenの心は針や糸を使って縫われるのではなく、 コンピューターによって縫われるのだ。 そして特に興味深いのは紙質に対するHenkelのこだわりである。 コラージュアートにおいて紙質は特に重要ではないと思われがちだが、 Henkelはシーンに効果的な表情を産み出すべく古い紙素材を用いるのだ。 こうした徹底した表現を作品全体にわたって行うことによって、Henkelは『パッチワーク・クイーン』を芸術性に富んだ優れた作品に仕立て上げたのである。
Daniel Hopfner
「囚われの女王」(2002年, 12分18秒)
 Daniel Hopfinerは、『Doktor Diamonds Bildnisse von Geisteskranken』という 19世紀のドイツの物語に登場する、Queen A.D.と名乗る若い女性の絵から インスピレーションをえて『Cherchez la femme』を製作した。 題材となったドイツの物語と同様に、この作品でもまた王国をばらばらにされ幽閉されてしまった 女王を中心にしてストーリーは展開される。王国への郷愁を強く覚える彼女は、 衰弱しきった体にもかかわらず、脱出を試みようとする。Hopfnerは、こうしたストーリーの全面を覆う哀感なそして詩的なイメージを、 古典的なパペット(人形)アニメ技術を駆使することによって、同時に表現することを実現した。
Andy Kaiser
「案内人HARARA」 (1999年, 9分25秒)
 Andy Kaiserは独自の視点でファラオの墓にスポットをあてる。 ファラオの墓の案内人HARARAは、考古学者のScarabausと3度目のミレニアムを 迎えた墓の最後の秘密を探っている。石造りの薄暗い地下納体堂を猛スピードで 移動するカメラが捉え、カメラはさらに奥深い迷宮に潜入していく。 照明を効果的に用いた演出によって作り上げられた影をおびた迷宮の世界、 地下納体堂等のリアルなセットによって、観客は恐怖をおぼえ、 閉所恐怖症的な感覚をいだき、不気味な地下の石の洞窟へといざなわれる。
Tine Kluth
「ゴースト・トレイン」(2000年, 15分)
 『ゴースト・トレイン』は、TINE KUTHの初アニメ作品で、 1960年-1970 年代チェコのアニメ技法を用い制作されている。 シーンの細部にわたる背景描写の執拗なまでのこだわり、 登場人物の心情までも表現するかのようなリアルな動きなど、 その劇的な演出および効果的な手法は特筆すべき点である。 加えて、パペットデザインの非凡な質が、この作品を、 アニメ-ションを超えた複合芸術に足らしめている。 また作品のストーリーは、ギリシャ神話のオルフェウスの物語を独自に 脚色したものである。
Raimund Krumme
「メッセージ」(2000年, 6分)
 Raimund Krummeの作品『メッセージ』にはたくさんの人物が登場し、集い、 彼らはメッセージをささやきあうという奇妙なゲームを楽しんでいる。 その姿は、孤独な人間たちのジェスチャーの連続のようであり、 空虚なコミュニケーションの様相を漂わせている。 ウェブ上という仮想社会に描かれる一つのコミュニケーション世界。 それはルールの介在しない無秩序な世界。
 そこは理解できないことばかりがある。 この作品の鑑賞者は、作品から現代社会への痛烈なメッセージを感じ取ることになるだろう。


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[DB] プログラム(約1時間)
Jochen Kuhn
「RECENTLY 2」(2000年, 8分30秒)

 恐怖と希望が交錯する病院の診療室、聴診器をあてられ男が診てもらうのは、 体ではなく心である。レントゲンに映し出される男の心の映像とは? 絵筆のかわりとしてコンピュータを使うことを嫌うJOCHEN KUHN は、 その徹底した絵筆へのこだわりをもって『RECENTLY 2』に独自の絵画シークエンス(連続)を用いている。 また、 私的なそして公的なイメージが記憶の景観を形作り融合されるということを 様々なコラージュ技法を使って表現しようとしている。
 CG映像を中心とする極度に洗練された映像が主流の今日、作者はそこから離れ、 素材を完全に掌握するという一つの原点に立ち返る。
Daniel Nocke
「サイクロプス」 (2000年, 11分)

 現代のサイクロプス(片目の怪物)は繊細な芸術家、それとも危険なモンスター? シシリアの海岸を旅するドイツ人夫婦の間で意見は異なるようだ。 作品の中で DANIEL NOCKEは現代の苦悩という題材を、 旅行という素材に風刺を加えながら描いている。 また彼は、テレビのシナリオやアニメ映画制作において多くの経験をも、 その多彩な才能は素晴らしいせりふ回しにも生かされている。 ためらい、無口に見られるナイーブなイメージの人物描写、 素朴なスタイルのパペットアニメーション表現を通して、 この現代社会を反映したテーマを古風なタッチで表現している。
Hannes Rall
「カラス」(1999年, 8分10秒)

 HANNES RALLの『カラス』は、Edgar Alan Poeの詩The ravenを映像化した作品である。 この詩のもつ不条理さや情熱のブーケのような印象を作家は強烈に表現している。 例えば、ライトに照らし出された魅力的な冬の夜、 雪によってまだら模様になった誰もいない平原などである。 物語は、恋人の行方を捜す男性にからすが彼女の死を伝えるというもので、 説話的ないたってシンプルなものである。 しかし作家が用いる優れたグラフィックとアニメーションによって、 物語は様々な感情で満たされ、その雰囲気は重層的に昇華していく。
Chris Stenner, Heidi Wittlinger
「ROCKS」(2001年, 8分30秒)

 2003年度アカデミー賞、オスカーノミネート作品。 転がる石がやがて車輪に変わる。それは世界の始まりから人間によって創造された文明社会までの時の流れが、稲妻の閃光のようなスピードに凝縮され、象徴的に描写されている。 2人の作家は、創造をテーマにおくこの物語をプリミティブな要素と演出を効果的に用い、 最新のコンピューター技術を駆使して作りあげました。 そのメッセージ性に溢れるストーリーと美しく洗練された映像を目にすれば、 このささやかな作品が2003年アカデミー賞においてオスカーにノミネートされたという 事実もうなずけるはずです。
Jan Thuring
「楽園行き」(2000年, 7分)
 
Jan Thuringはそのデビュー作に、古典的でドラマティックな題材を選んだ。 不安が漂う中、ねずみたちは新しい海岸への旅路をすすめる。 そして予期せぬ"パラダイス" への突然の遭遇。張り詰めた雰囲気から "アクション" への迫真の描写が圧巻である。 彼はストーリーをわかりやすくするために、 絵画のようなドラマティックな構造とイメージの力強さに力点を置いている。
 一切の言葉を用いない作品は、車のノイズやねずみたちの鳴き声を?効果的に印象づけ、 その劇的な結末を哀感とともに心に重く響かせる。 ワイヤーを用いて作られたねずみのパペット(人形)が愛らしく特徴的である。
Thomas Voigt  management Holger Lochau (HFF Potsdam)
「モーメント〜瞬間」(1999/2000年, 4分20秒)

 -全ての生き物は捕え捕われる- 遠い昔のハンティング神話が今に蘇る。 殺伐とした様相漂う草原。一本の槍が獲物の群れに向け放たれる。 必死の形相で逃げ惑う獲物たち。しかし槍は、一頭の獲物を的に捕えて逃さない…。 私たちはそこで、人間と動物の拮抗する力と生存に対する本能のせめぎ合いを目の当たりにする。 作者がその映像を通して現代に投影しようとするものは何なのか? 表現力豊かで、芸術性の高いペイティングアニメーションムービー。
Johannes Weiland Filmakademie Baden-Wurttemberg, Ludwigsburg
「ヘシー・ジェイムス」 (2000年, 6分)

 荒涼としたネバダの砂漠のとあるカフェ、不格好で不釣合いな二人が何やら止めどない口論に興じている。 やがて一方は打ち負かされてしまうのだが……。そこに込められた作者のメッセージとは!? 100%デジタル化されたこの作品は、とりわけ音声と口の動きのシンクロ化において 特筆すべき成功を収めています。アニメーションを熟知する作家の執拗なこだわりが、その類いまれな技術として表れています。
Kirsten Winter
「ESCAPE」 (2001年, 7分13秒)

 Kirsten Winnerは、ダイナミックなペインティング風景を息苦しくなるような モノトーンな音楽にのせてアニメ化している。 その作風は、個性の光る彼女独特のもので、 音楽に特別な存在感を与えながら、極めてラジカルかつ抽象的に表現されている。 音楽と映像、リズムと色調、コントラストの際立つそれぞれの要素が不思議とも思える独特の ハーモニーを作り出し、作曲家とアニメーターの個性と才能が互いに強く主張しつつも、 互いのそれを損なうことなく見事にからみあっている。


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[BC] BACA-JA 2005 入選入賞作品集(日本の学生作品)
全国の美術デザイン系・メディア系の大学・短大・専門学校から学校推薦によって応募された映像作品から選抜された作品集。「BACA-JA」とは、「ブロードバンド・アート&コンテンツ・アワード-ジャパン」の略で、インターネットを前提としたコンペティションで、映像部門、ネットアート部門そして今年度よりケイタイムービー部門が新設された。今後、関西TVや京都チャンネルで作品の放映が予定される。
「BBCCネットアート&映像フェスタ」が本コンペの前身であり、あわせて11回目となる。
 BCプログラム
[BC] プログラム(約1時間)


猪原 麻功 [京都精華大学]
「psycho kickes」(2005年, 11分57秒)
 
 最低限の機材と用意できる最大限の生の素材を用意し、あとはできるだけ個人の技術、個人の手によって造り上げてゆく映像を造ろうと考え、これをひとつの過程として制作しました。




堀田 博司 [名古屋市立大学]
「ぱらぱらえすけーぷ」(2005年, 3分13秒)
 
 とにかく、楽しく動かしてみたいという一心で作りました。キャラに、紙の中しか移動できないという制限を与え、そこから発想を広げていきました。アスレチック感覚で、遊び心をくすぐる作品に仕上がったと思います。
浜岡将店 代表:若岡 伸也 [金沢美術工芸大学]
「Test」(2004年, 4分45秒) 

 普段動くはずのないものが動き出す面白さ、文字と図形に限られたグラフィックからの可能性を追求。テストのときの心理状態の発想がポイント。
中嶋 展子 [京都市立芸術大学大学院]
「落花性」(2005年, 5分39秒)
 
 落花生と女性の躰に共通点を見つけ、比喩的に女の生涯を表したアニメーションです。人身御供として崖から落下し、2つの種が転がる。ひとつは大地に、もうひとつはおつまみに…。女性の性の二面性を肯定的にとらえた作品。



半崎 信朗 [東京芸術大学]
「Birds」(2005年, 4分12秒)
 
 ひしめきあう高層団地で生活する人々や、兵器として生産される鳥達は街という巨大な生命体を形作り、守るための細胞のような存在だ。それらのけなげな営みに対して「懐かしさ」や「ぬくもり」が観る人に伝わってくれれば、と思う。
山岸 絢子 [国立音楽大学]
「algae」(2005年, 4分46秒) 

 この作品は水面に浮かぶ水草をモチーフに制作した。algaeとは水中や湿所に生じる藻類のことで、藻とは“あやがあり、きらびやかなさま”という意味をもつ。今回この世界観を描画的に表現することを目的とした。
寺田 めぐみ [京都造形芸術大学]
「愛の部屋」(2005年, 10分42秒)
 
 100編の四コマを元にした10編のアニメーション。恋人の死体を溺愛する男、歯車を転がし続ける社会の歯車と化した人々、突如寝室に現れた11人の男…。人間の存在の悲しさや不可解さを描いています。


平石 亮太 [大阪電気通信大学]
「 THE MAN IN THE ROOM」(2005年, 9分44秒 )

 「虚構と事実」「虚構に翻弄される男」というイメージで作品を制作した。(あらすじ)行方不明になっている女性を探しつづけている男は、ある日冷蔵庫の隅に汚れのようなものを見つけるがー。
発智 和宏 [東京芸術大学大学院]
「アニマ」(2005年, 3分51秒
)
 アニマは生命を表現することをテーマにしたダンスアニメーション作品です



大山 慶 [東京造形大学]
「診察室」(2005年, 9分06秒)

 大人の感じるリアリティと子供の感じるリアリティの差をアニメーションの動き、形、質感の違いによって表現しました。


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[SF] KINO VISIONプログラム(Screen Fields:ドイツの女性作家の作品集)
今回はベルリンを中心に活動する若手女性アーティストグループ、「スクリーン・フィールズ(Screen Fields)」の作品集を紹介。メンバーはデボラ・リゴリオ、ニーネ・ブッテ、ラウラ・ホレリ、梶村昌世、サスキア・ヴェントラントの5名。
 SFプログラム
ニーネ・ブッデ + ナターシャ・ロッシと共同制作
「Bombed」(2000年, 50秒)
  
 キラキラ文字アニメーションとしてのふたつのでかい尻の32秒間対話
≪Hey≫
≪whatshou

ニーネ・ブッデの作品はアーティスト自身が考えつき、実現し、撮影したパフォーマンスの記録だ。クリップ様式の作品は日常のシチュエーションをアイロニカルにとがらせ、有名な童話やアティストの言葉を軽やかに解釈し直す。このユーモアのあるアプローチの後ろには注意深い社会分析があり、作品は政治的コメントでもある。ワイマールとミネアポリスで勉学したブッデは、映像をインスタレーションの形で展示する。映像表面をアマチュアっぽく組み立てられた構成に吸収することによって、映像が三次元の空間で新しく位置づけられ、感覚的に変化する。ブッデは二年前からよく公共の空間で活動している。
[SF] プログラム(約1時間)
デボラ・リゴリオ
「Landscape」(2002年, 7分)

 「Landscape」ではリゴリオは故郷のアプリアを上空から見る。遠くから眺めた南イタリアの風景は様々な線と形の地図と化す。

デボラ・リゴリオ
 デボラ・リゴリオはアニメーションと風景の記録映像を結びつける。「Landscape」ではコンピューター・アニメーションで創られた形や模様を彼女の故郷のアプリアの映像に重ねる。そうすることによってリゴリオは新たな関係性を見慣れたものに書き込む。他の作品では分析的な視線で風景の美的形式を取り扱う。この風景は自然のもの、都会的なもの、または心の風景である。リゴリオは自分の声と電子音楽で映像をコメントし、物語や思考をこのメタレベルでつなげていく。
ニーネ・ブッデ
「相互関係?ハンス・Hの自由解釈」(1998年, 7分)
梶村昌世
「Envelope:Affectionately」(2002年,
   
 私たちはどの物語を語り、物語はどのように私たちを語るのだろう? 映画のはじめには水が記憶を持つというカナダの先住民の考えがある。水のモチーフはこの映画で繰り返される。その流れにのって、映画は物語性について 考える。日本にもある、鯉のぼりが川を登り龍になるという伝説に、先住民たちの鮭の漁を連想する。
 鮭の漁は、彼らの口述文化の記憶と歴史観と結びついている。自らの故郷で西洋文化の支配によってマイノリティーとして生きていく先住民のコミュニティーにとっては、鮭の漁を通して自分たちの歴史と文化を語ることは、アイデンティティーを守り、常につくり変えていくということを意味する。同様に、移民とは常に 自分たちを考え直し、アイデンティティーをつくっている。ベルリンという「ディアスポラ」で祖母から受け継いだ着物を着るという儀式は、伝統を新たに発見し、変えていくことである。 多様な場所、物語、現実が重なりあい、様々な映像と声が交わることによって、「文化的他者」というコンセプトを問いつめる。知覚のアンビギュイティーを 考え、現実というものの多様性をアピールする。

ラウラ・ホレリ
「712 Interviews?」(16分)

 「712のインタビュー?」はスウェーデンのマルメ(Malmo)大学で国際移住と民族研究を専攻する4名の学生と制作された。この作品は、社会科学とドキュメンタリーにおけるインタビューの利用の類似性についてである。
 作品は3つの場面に別れ、各場面では情報を集める為に修士研究で用いた方法について学生と議論をする。サウンドトラックは長いインタビューが文書化されその後学生と作者がスタジオで読み上げたものである。イメージは作品制作の為のプロセスを表している。つまり、インタビューや、大学の建物、編集スタジオ、サウンドスタジオからのイメージである。

ラウラ・ホレリ
ラウラ・ホレリはパブリシティーとプライバシーの交差点に取り組む。写真・文章・ビデオインスタレーションでモンタージュを原則に、公式な記録資料を個人的なものと結びつける。映像作品「You Go Where You’re Sent」は、外交官の妻でありながら医者として働いた祖母の私生活のスナップショットと公式な写真を用いて、女性の社会的立場と自己理解を問う。様々な現実を関連することによって、ホレリは作品の中で想像の領域を開き、主体的な介入を可能にする。
サスキア・ヴェントラント 
「circuit」(1997年, 5分36秒)

 このビデオ作品は、四年間日常生活と旅で撮ったポラロイド写真からできている。ポラロイドは自分のじかの環境への視線を見せる。共通しているのは、ポラロイドが成立する瞬間だ。写真を撮る瞬間、モチーブの発見と撮影に絶え間がない。たいていほんの一瞬だ。一人の時は速度を自分で決められる。同時に集中が高まっている。
 もっと意識してものを観察することができる。旅をすると、一人でいることができる。未知に対しての注意は知覚を敏感にし、自分に新しい視線を開く。

サスキア・ヴェントラント
サスキア・ヴェントラントはベルリンで勉学後、二年間京都に暮らす。京都では清水菁花先生のもとで書道を学ぶ。ヴェントラントは日本の伝統文化にある練習というコンセプトに取り組んでいる。練習中、行いは個人の意識に邪魔されることなく自然におこる。文字は長期間の練習によって考えることなく条件反射的に書かれる。ヴェントラントの作品はビデオ映像やスケッチで表現されるミニマルな動きの記録である。


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