第500回アセンブリーアワー講演会「人間的差別の問題」  京都大学総長山極壽一氏・京都精華大学学長ウスビ・サコ対談レポート

2019 年 4 月 1 日

アセンブリーアワー講演会は、京都精華大学が1968年に開学した当初から開催されている公開トークイベントです。2018年度、京都精華大学は開学50周年を迎え、本講演会も500回目を迎えました。記念すべき500回目のテーマは、初代学長の岡本清一が、1968年4月に第1回アセンブリーアワーで提示したテーマと同じ「人間的差別の問題」。京都大学総長の山極 壽一氏と本学学長ウスビ・サコが50年後のいま、改めてこのテーマに応答しました。

人間的集団が人間的差別を生み出した

サコ:本日は山極 壽一さんをお招きし、50年前の第一回講演会と同じ「人間的差別の問題」について、ざっくばらんに話をしたいと思っています。まず、「人間的差別」について、差別は人間だけのものなのか、山極さんの意見をお聞かせください。

山極:本日は、500回目という記念すべき回で、「人間的差別」についてお話しするということで、人間以外のものを対象に研究してきた身としては緊張しています。私はこれまで、京都大学でサルやゴリラを対象に研究してきましたが、この50年間で、サルの社会構造に対する研究者の認識は大きく変容しました。サルは集団で行動する生き物ですが、強い集団や弱い集団といった集団間の優劣関係があり、そこには遊動域や食物をめぐって格差が存在することがわかりました。また、集団の内と外が明確に区分され、集団から一度離れるとなかなかその集団に戻ることができない厳しい社会です。その社会で同じ集団の仲間と認識する条件は、身体のつながり。毛づくろいなど、日々体が触れ合える距離で生活することで、仲間だと認識しあっています。そのように身体性を伴うつながりこそがサルの社会です。ですが人類は「言葉」を生み出したことによって、新たなつながり、新たな社会を作り出しました。集団をつないでいるのは、実体のない「言葉」、つまり「フィクション」です。身体性を伴わない集団は、規模をどんどん拡大することができました。一方で、その新たな集団構造が差別を生み出したのではないかと考えています。

サコ:今のお話しをうかがって、サル社会における優劣の格差と、フィクションでつながる人間社会の差別ははっきり区別すべきだと感じました。サル社会にある、強い、弱いという関係性は一対一の対立構造ですが、人間的差別とは、第三者の存在と、フィクションによる優劣の評価によって生まれるものではないでしょうか。そしてまた、そのような新しい差別の概念は、近代社会以降に発展してきたのでは。世界人権宣言が採択された1948年頃から、現在のようにネガティブな意味での差別という概念が生まれたように感じています。

山極:私自身は、人間的差別の起源はかなり古いと考えています。狩猟採集時代は、集団内での対立は物理的に離れることで解消できていましたが、農耕牧畜開始以降は定住して集団が固定化され、簡単に離脱できなくなりました。よって集団内でのつながり意識が高まり、対集団同士で差別が発生したのではないでしょうか。ナチスのユダヤ人迫害や日本の部落問題など、民族や集団としての差別は根深いものがあります。

サコ:たしかに、集団の利益を守るということも差別といえるかもしれませんね。しかし、人間的差別とは区別できるのではないでしょうか。個人間での格差というフィクションが生まれたのは、近代以降、資本主義の発展が影響しています。

山極:人間的集団とサル的集団の最も異なる点は、集団に尽くすという心理です。この心理はサルにはありません。身の安全や食料の確保など、自分にとって有益だから集団を形成している。人間は、時には命を懸けてまで集団に尽くすなど、集団と自分の関係が神聖だと考えています。このような集団形成は人間的なものであり、これが人間的差別に一直線に繋がっていると思います。

サコ:一体なぜ、そのような集団心理が支えられてきたのでしょうか。

山極:所有の概念が原因ではないでしょうか。農耕文化は、多く所有する者が強者という価値観を生み出しました。現代社会でも当然のように受け入れられていますが、人間が作り出したフィクションでしかありません。さらに、それを強化する心理が、先祖・死者とのつながりです。先祖がいたから自分がいる、自分の所有があるという考え方はサルにはありません。農耕文化が生み出した人間的な集団心理です。

フィクションによってフィクションに打ち勝つことはできるのか

山極:現代はインターネットの出現によって、人間的なつながりはさらに複雑化しています。情報によって集団が形成され、集団のイメージが勝手に作られる時代です。例えば犯罪の多い地域出身であるということが、その人個人の評価に関わってきます。今後、あらゆる場所でAIが導入されていくでしょうが、AIには倫理がありません。分析に頼って個人を評価付けていく。それによって格差がどれほど拡大するか、非常に危機感を抱いています。

サコ:私は、国籍上は日本人で、日本のパスポートを持っていますが、空港のロボットによる入管審査で信ぴょう性を問われ、飛行機に乗り過ごしたことがありました。グローバル化によって差別構造もまた変わっていきそうですね。

山極:海外の人をどう受け入れていくのかは、重要な問いですね。今後、海外の人が増えるのは目に見えていますし、東京では5人に1人が国際結婚の子どもの小学校もあるようですが、地域によって受け入れ方に温度差が大きいのが現状です。

サコ:これからの未来を生きる人間は、社会をどう創造していったらいいと思われますか。

山極:ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、著書『ホモ・デウス―テクノロジーとサピエンスの未来』のなかで、21世紀に人間が求めるものを3つ挙げています。1つ目が不死の身体、2つ目が神の手、これは生命を生み出すこと、そして3つ目が幸福を求めること。これまで人類は所有の概念を生み出し、格差を生み出してきましたが、それは幸福だったのでしょうか。20世紀は、我々がフィクションのなかで生きていることに気がついていない時代でした。コンクリートの建物がどんどん建設され、均一的な空間で生産性を高めようとした。21世紀はどのような空間にいると人間は幸せなのかを考える必要があると思います。もしかすると今後は、遺伝子組み替えや高額な治療などで、アップグレードされた人間とそうでない人間と、生まれながらにして格差が生じるかもしれません。その時は、「人間は生まれながらにして平等」というヒューマニズムの根本が覆ることになります。それがいま危惧していることですね。

サコ:人間が人間としてどう在るべきか、それも差別の問題と一緒に考えていかなくてはなりませんね。そのためには私たちが教えている芸術、人文学の分野のように、人間のあり方や幸福といった、抽象的な事象を考える学問を維持することが重要だと感じています。

山極:私たちはいま、フィクションのなかで生きているといっても過言ではありません。人類は言葉によって世界を作り変えました。平和や平等という概念もすべてフィクションです。

サコ:「こうあったら幸せだろう」という先行したイメージに、自分の幸せを委ねている人がとても多い。本当に幸せなのかを検証する機会がありませんでした。

山極:人類の幸福を再検証し、フィクションを新たなフィクションで塗り替える、そうして差別のない世界を創造することはできるかもしれません。私たちにはAIが持っていない身体があります。身体性による社会のつながりを今一度考え直してみてもいいのではないでしょうか。

これからの人類にとって幸福な社会とは?

サコ:私の出身のマリ共和国をはじめとしたアフリカでは、差別のない社会の創造に積極的に取り組んできました。例えばマリには、いつから始まったか不明ですが、名字によって冗談を言い合う文化があります。「サコ」という名字の家系は、「クリバリ」という名字の家系と冗談関係にあると決まっています。今でも空港等で、全く知らないクリバリの名字の人に突然からかわれることがあるんです。日本の生活に慣れた今では私でさえ驚くことがありますが、これはマリの人にとってお互いの関係性を確かめあう文化。マリではこのような社会構造が一時期かなり機能していたことがありました。しかし最近では、貨幣経済が浸透し、そのように人間らしいつながりは薄れてきてしまっています。

山極:人類は農耕文化をきっかけに集団を拡大し、現代はインターネットを介して集団を広げながら、他者に理解してもらいたいと願っています。しかし、どれだけ集団を拡大しても、1000人、10000人の人たちと信頼関係を築くことはできていません。顔が分かる身近な人たちと信頼関係を築くこと、これが人間の幸福ではないでしょうか。

サコ:マーケットの価値で人間が評価される時代です。数値に縛られると自分の価値を自分で見出すことができません。自分とは何かを考えるには、身近な他者とコミュニケーションをとり、互いの違いに気付くことが必要です。大学という教育の場は、コミュニケーションを通じてお互いに違いがあることを気付かせ、違いがあるから社会が成り立っていることを理解させる、そして人間に対する想像力を養う場所として、社会に貢献していきたいと思っています。山極さん、本日は貴重なお話をありがとうございました。

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