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発刊の辞
文明は野蛮に対置され、人道の理想と価値とを内包する営為を意味していたが、その他ならぬ文明の到達地点は剥き出しの欲望の追求と敵意とにいろどられ、人間が人間に向かう表現の文化は、遠く背景へと押し込められてしまったかに見える。
グーテンベルグの活版印刷機は人間的な道具として、ルネッサンスの広がりに力を発揮したが、大小のコンピュータに装備された、われわれの時代のメディアの営為は、果たして、文化的価値の擁護に向かっているのだろうか。人間と人間の対話を、大陸規模から半球規模へ、そして全地球規模へと拡大してきた近代の文明はその内部で、逆説的に、地域の社会と文化とを衰退させてきた。また、なによりも資本と科学技術の専横が、人間世界の姿を形づけつつあるように見える。
悲観論者の眼には、機械的なるものの自己増殖と巨大化のなかに、人間が埋没しているように映っても、まったく不思議ではない。たしかに、現代を生きる人間自身が文化の価値を維持し続け、文化を生きることができないのであれば、悲観論者の世界像は瞬時にして恐るべき現実となってしまうだろう。しかし、「考える葦」
人間は、「表す葦」人間であり、人間は人間を求めあうことをやめない。人間が人間に向かいあおうとするとき、表現は生起し、他者に感応されるべく姿をもつ。
雑誌『表現Human Contact』の視座は、われわれ自身の文化「ポピュラー・カルチャー」に向けられ、現代文明の曖昧な背景のなかからわれわれ自身の姿を浮かび上がらせるところにある。その目指すところは、現代表現文化の無自覚的な即席の加工にあるのではなく、人間の発し続ける人間への希求を読み取ろうとするところにある。人間はいよいよ氾濫する情報の大海のなかでも、ワタシハニンゲンデスという信号を発し続けていると確信するからである。
2007年4月
京都精華大学表現研究機構代表 中尾ハジメ
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