職人たちの「今」を見据えながら、京都の路地の片隅で、米原は十年後に書き残す。

2014.12. 26

「文章を書きたいと思ったことはなかった」と
子ども時代を振り返る。

米原は明確な目標に向かって進む、というタイプではなさそうだ。むしろ好奇心の赴く方に歩みながら道をみつけるタイプといえる。母親の影響で子どもの頃から本が好きだったが、「読むことは好きだったけれど、自分で文章を書きたい思ったことはなかったですね」と述懐する。

大学に進むときにも「宇治で生まれ育った身としては、京都市内に行くだけでも充分に都会に行く感覚でしたから」というきっかけで京都精華大学を選んだ。その選択にしても米原には「こんなことを学びたい」という明確な意志があったわけではなかった。どちらかというと「どんなことを学べるのだろう」という好奇心が道しるべとなっていたのだろう。

そんな米原の現在の仕事は文筆家であり工芸ジャーナリストである。主に工芸の職人たちから話を聞き、文章にまとめていく。3冊の著作もあり、大学で非常勤講師も勤めているのだが、そういった結果さえ、彼の話を聞いていると、ごく自然に乗り合わせた舟でたまたまたどり着いた場所のように思えてくる。そして、その自然体こそが確かな道であり、米原という人物の強みだとも思えてくるのである。

たまたま、取材に行った工房。
それが職人の世界との出会いだった。

「大学時代、広告について調べたことがあったんです」と、当時を懐かしむように米原は語った。「たしか特別講義だったと思うのですが、広告制作の概論を教えてもらったんです。それが面白くて」と米原は笑う。広告に興味をもった米原は、講師の先生とともに広告について調べ始めた。商品をストレートに広告するタイプのもの、商品のことをあまり説明せずにじらすタイプのもの。ただ商品の良さを伝えるためだけに、様々な方法があるということに米原の好奇心は強く刺激されたのだった。大学を卒業した米原が広告会社に入社したのも、そんな想いがあったからだ。 ただ、その会社では制作ではなく営業担当を命じられる。普通なら入社を辞退しそうなところだが、米原はご想像の通りその時の流れに身を任せた。そのままあっさりと営業として入社すると「いい先輩たちに恵まれて」3年ほど営業の仕事を楽しむのだった。

その後、京都のベンチャー新聞社に転職。そこで米原は編集を中心とした幅広い仕事を任せられる。2年半ほど勤務したこの新聞社の退職間際に関わった取材が米原の運命を変える。

米原はそこで西陣織に欠かせない杼(ひ)という道具を作る職人に取材をした。杼(ひ)は、織物の経糸(たていと)に緯糸(よこいと)を通すために使われる道具。そんなものを専門につくる職人がいることさえ知らなかった米原にとって、この取材は驚きの連続だった。

そして、ここから米原の本領が発揮される。取材が終わってからも、米原は足繁くこの職人のもとを訪れるようになったのだ。仕事は関係がない。ただただ「もっと話が聞きたい」という一心だった。不思議なもので、弟子入り志望でもなく、取材でもなく、何の目的もなく、ただやってきて話をして帰っていくだけの若者を職人はおもしろがってくれた。その結果、近くに住んでいる他の職人や同じ西陣織に関係する職人などを紹介してもらうようになった。

「もう、それこそ数珠つなぎってやつですよね。蒔絵をしている人、染屋さん、木工、金属、いろんな職人さんに会いました」と笑う米原。しかし、この時の米原は文筆家でもジャーナリストでもない。ただ、職人の世界をおもしろいと思うだけの若者は、メモも取らず、録音もせず、職人に会いに行くという生活を半年以上も続けていたのだった。

職人への興味が1冊の本にまとまり、
それが世の中の役に立つのだということを知った。

そんな生活を1年半ほど続けたころに、「京都職人 匠のてのひら」という本を出した。それまでに出会った職人さんたち50名分のインタビューを掲載したルポルタージュだった。米原の工房通いに関心を持った大学が調査研究プロジェクトの場を用意してくれ、その成果を評価した出版社から本を出しませんか、という声がかかったのだ。メモもなにもしていなかったので、これまで話を聞いた100名近い職人さんのなかからピックアップし、2名の仲間とともに話を聞き直し、本にまとめた労作だった。

「この頃は、まだ書くことで生活できるとは思っていませんでした。だから、そのうちどこかに就職しようかなと漠然と考えていて」と米原は笑う。しかし、本を出すと少しずつ執筆依頼がくるようになった。京都のある大学からは「講義で学生を連れてフィールドワークをやってくれないか」という話も来た。

現在、米原は工芸ジャーナリスト、大学の非常勤講師などの肩書きを持ちながら、忙しく執筆活動に取り組んでいる。「でも、活動の大半が『大学講師』になってしまったら、物書きとしては終わりなんでしょうね。やっぱり歩き回って取材しないと。これからも書くことに軸足を置いていきたいですね」と表情を引き締める。

ほんの100年前の技術が忘れ去られている、
という現状を書くことで変えていきたいと思っている。

京都の路地を歩いていて、職人の工房を見つけると、米原は好奇心いっぱいで覗いてみるのだという。知らない人、知らない場所でも、伝統工芸を支えている職人であれば物怖じしないのだ。「その辺りは京都に住んでいる、という強みかもしれませんね。隣人であることで、取材もしやすいという気がします」。米原はそう言って笑う。しかし直後に、少し顔を曇らせてこんな話をする。「ほんの100年前の技術がもう伝わっていない、なんてことがザラにあるんです。戦前の工芸品ですら、どういう技術をつかっているのかがわからない部分がある。専門家が首をひねっている。そう考えると、いま私が職人さんたちの技術を記録することに大きな意味があると思えてきたんです」。

職人たちをめぐる状況は決して恵まれたものではない。大切な技だと分かってはいても、需要がなければ弟子を取るわけにもいかない。人間国宝級の職人の子どもが、安穏と技術を継承できる時代ではないのだ。

「例えば神社の社殿や神祭具を作るためには檜が必要です。高い物だと何百万円もする。これを買って、乾燥させるためにまた数年かかりますし保管のための倉庫代も必要です。仕事準備のための費用は莫大で、その負担に耐えきれず廃業せざるを得ない職人さんもいるんです」と米原は話してくれた。

確固たる意志があって選んだ進路ではない。使命感があって始めた仕事ではない。しかし、大学で学んだこと、社会で出会った人、そのすべてがいまの仕事へと続く道だったのだということがよくわかる。米原の話の端々から感じられるのは、人と人とのつながりを大切にしたい、という姿勢だ。そして、そこから生まれてきた絆をけっして無駄にはしないという粘り強さ。それが米原に工芸ジャーナリストという仕事をもたらし、十年後二十年後の職人の世界を思案してもいいのだ、という資格を与えたのではないかとさえ思えてくる。

米原 有二(よねはら ゆうじ)

1975年生まれ。京都府出身。2000年人文学科卒業。京都を拠点に工芸や伝統文化を対象とした取材・執筆活動を行っている。京都造形芸術大学非常勤講師。主な著書:『京都職人 匠のてのひら』(共著・水曜社)『京都老舗 暖簾のこころ』(共著・水曜社)『京職人ブルース』(京阪神エルマガジン社)
Webサイト→http://sakura-ew.net