『こうたくんのお母さん』は、絵画教室でジャムをつくったりもする。

美術教育
2014.04.30

「版画が向いてるかも」という言葉に導かれて精華へ。

バドミントン部と美術部を掛け持ちする高校生だった花田陽子は、美大へ行こうという強い意志をもっているわけではなかった。それよりも、古いものを大切にしている京都っていいな、京都の大学へ行きたいな、という思いだけをもっていた。 そんな思いを抱いて、高校2年生の夏休みに花田は鹿児島から京都に絵を習いに行った。美大や芸大を目指す人たちが集まるアトリエは、花田にとって大きな刺激となった。油彩も描いたことがない花田には戸惑うことも多かったのだが、「あなたは版画に向いているかも」という教員の言葉が花田のその後を決定づけた。
さらにアトリエの仲間たちと一緒に訪れた京都精華大学の学園祭の型にはまらない自由さに心惹かれ、花田はこの大学に進学しようという気持ちを固める。木版画と銅版画くらいしか知らなかった花田は、リトグラフやシルクスクリーン、ドローイングなど、いろんなことができると教わり、これで志望の大学と専攻が決定したのである。
入学当初は戸惑うばかりであったが、3年生になったあたりから、俄然、作品づくりを本格化させる。シルクにドローイング、それらの技法で作品をつくることが楽しくて仕方がなくなってきた。また、学校では作品づくりと並行して教員免許の取得も目指した。

変化する環境の中で、いろんなものが見えてきた。

そのときの授業で出会ったのがシュタイナー教育だった。「正直、当時の私には難解でしたね」と話す花田だが、懸命に努力してレポートを提出した。そんなシュタイナー教育と再会するのは、花田が京都精華大学を卒業後、愛知県立芸術大学大学院を修了し、結婚、出産を終えてからのことだ。
デザイナーとして社会に出て、これから自分はどんな仕事を世の中に送り出していくのだろうという期待と、広告代理店でハードな仕事を続けていくことの大変さの両方を実感し始めた頃に、夫と出会い結婚を決めた。入社3年目、28歳の時だった。しばらくは互いにいたわり合いながら、家庭を築いていく暮らしが続いた。そして、妊娠を機に退職。日に日に大きくなっていくお腹を見ながら、花田は不思議な感覚にとらわれた。「なんだか自分だけが楽をしているような、そんな気がしたんです。お腹が大きいというだけで家にいる。で、疲れて帰ってくる夫と同じものを食べている。それが実に落ち着かなくて」と当時を振り返って笑う花田。しかし、出産して、そんな肩肘張った感覚のすべてが消え去ったのだった。

3人の子どもと26人の生徒。みんなと一緒に楽しむ教室。

最初の男の子が生まれ、その顔を見た瞬間に余計な力が抜けていったのだという。「この子さえ、無事に育ってくれればいい」そんなシンプルな願いが花田の心を下支えした、そんな瞬間だったのかもしれない。
いま、花田は近所の借家と自宅、そしてパブリックスペースを利用した絵画教室を行っている。最初は数名の生徒から始まった絵画教室も、いまでは26人の生徒が集まるようになった。花田自身の子どもも増えて3人になった。花田の子どもたちは無理強いもしないのに「楽しいから」と勝手に教室にやってくる。そして、他の生徒たちと一緒に絵を描き、キャンドルをつくり、時にはジャムをつくったりもする。それは、シュタイナー教育の実践のひとつだ。
イチゴを摘むところから、煮詰めて瓶に詰めるまで。すべてをやることで、ジャムがどのようにして存在するのかを知ることができる。売っているジャムを買ったのではわからない。イチゴを買ってきてジャムをつくってもわからない。生きるということの根源がジャムづくりの中にはあるのだ。

母になることで得られたバランス感覚。

しかし、花田はことさら声高にシュタイナー教育を実践しているつもりはない。取っつきやすい部分をうまく絵画教室に取り入れようと努力している。そのバランス感覚も、母になることによって得られたものだと言えるかもしれない。
そんな花田を教室の生徒たちはあまり先生とは呼んでくれない。「息子たちの名前で呼ぶんですよ。こうたくんのお母さん、かいちくんのお母さんって」とうれしそうに笑う花田。アットホームな中で、学生時代に身につけた創作や教育方法を実践できている充実感が全身からあふれていた。

花田 陽子 (はなだ ようこ)

1977年生まれ。鹿児島県出身。2000年版画コース卒業。卒業後は愛知県立芸術大学大学院へ進学。修了後、広告代理店にデザイナーとして勤務。現在は和歌山で3人の子どもを育てながら、自宅やパブリックスペースなどで絵画教室を主宰している。