


History of Burma`s Struggle for Democracy

■イギリス植民地時代から独立へ
第三次イギリス−ビルマ戦争でマンダレー王朝を滅ぼしたイギリスは、ビルマ全土を掌握し、1886年にはビルマ王国の併合を布告、以後ビルマはイギリスの統治下におかれる。
1940年ビルマを脱出したアウンサンら「30人志士」は、連合軍の「ビルマルート」攻略のため、日本軍による軍事訓練を受け、42年
3月にはビルマ独立義勇軍として日本軍と共にラングーンを占領した。しかし、日本軍はビルマルートの封鎖に止まらず、ビルマ全土を占領。1943年
8月日本はビルマに「独立」を供与するが、実際には、資源収奪、ロームシャ(労務者)の徴用動員、憲兵の強権支配が行われる「ジャパン・キッ」(日本時代)であった。
45年アウンサン将軍率いるビルマ軍が、日本に対して武装蜂起を開始。48年1月4日ビルマは連邦共和国として独立した。

■ネ・ウィンの独裁政治
経済政策の混乱や少数民族問題などで政策遂行能力を失ったウー・ヌ政権に対し、62年、ネ・ウィンが軍事クーデターを起こし政権を奪取。革命評議会を樹立し、「ビルマ式社会主義」が開始された。憲法は停止され、政党は禁止、国会は解散させられた。鎖国に近い外交政策と、統制経済は経済を疲弊させていき、87年に国連から最貧国
(LLDC)の認定を受ける。
80年代半ば実施された主要農産物の取引き自由化、高額紙幣の廃止などの政策は、経済のさらなる大混乱を招き、国民のネ・ウィン政権に対する不信感は決定的なものになった。

■民主化運動の高揚と弾圧
経済混乱、強権政治に対する反発は、88年ラングーンで大規模な反政府デモを勃発させた。国民の批判の高まりに、ネ・ウィンはついに辞任に追い込まれたが、引退演説で「騒動を起すものは狙って撃つ」と「警告」した。88年
8月 8日、全国で学生・労働者・市民がゼネストとデモに突入、政府機能は麻痺した。「警告」通り、軍は徹底した弾圧にのりだし、一連の民主化運動における軍による死者は1,000人を越えると見られている。9月18日、軍は実力で国権を掌握、ソオ・マウンを中心とした軍事政権が成立した。約10,000人の学生が国境地帯に逃れ、少数民族の武装闘争に合流した。
9月27日、アウンサンスーチー、アウン・ジ−、ティン・ウ−らが中心となり「国民民主連盟」(NLD)を結成。1990年
5月27日総選挙が実施され、NLDが 485議席中 392議席を獲得、圧勝。しかし軍事政権は憲法の未整備などを理由に国会を開会せず、NLDを始めとする民主化勢力への逮捕、拘束などが続く。この間5人以上の集会が法律で禁じられたり、政治的に危険と判断される人物への予備拘禁、裁判無しでの勾留が合法化されるなど、国際的に人権の蹂躙と非難を浴びる諸政策を軍事政権は打ち出し、獄中死する政治犯が後を絶たない。
1998年 5月 NLDは同年 8月21日までに1990年の選挙結果に基づく国会を開会するよう軍事政権に要求するが、軍事政権はこれを受け入れず。
9月独自国会の開会を宣言していたNLDの国会議員の大半が拘束される。
1998年11月現在、国会は未だ開かれていない。