


−チベットの将来についてどう考えるか。
「私は仏教と仏教文化とを区別している。仏教は仏教徒のものだが、仏教文化には、仏教徒ではない者であっても従うことができる。チベットの将来は、チベットの仏教文化を基盤に調和がとれ、平和で、幸福な社会が出来上がることを私は思い描いている。それはまた、環境が保護される社会でもある。仏教文化は物質的な価値よりもむしろ内面的な価値を重視する。そこにはより大きな満足があり、環境の破壊はより小さい。私は教育や家庭生活などを通して幸福な社会を創造することは可能だと思っている」

−日本そして日本人はチベットのために何ができるだろうか。
「日本には長く特別な伝統があり、同時に高度な物質的進歩を遂げたと思っている。私は初めてあなたの国を訪れて以来、いつも精神的な発達、すなわち内面の価値と物質的発達を両立しなければならないと言ってきた。日本人にはそれを自分たちで実現できる潜在的能力と機会があり、他の人々の見本となり得るのだ。近年日本を訪問した後で、私は古い友人にこう話した。経済発展はいずれ限界を迎える。その時、容易に対処できるように心の中で準備しておいたほうが賢明だと。精神的な発達と物質的な発達の両立を心がければ、個人としても家族としてもより幸せになれる。そのような家族が組み合わされば、さらに幸福な社会ができあがるのだ。それゆえ、当面日本は少なくともチベットの物質的な発展に貢献することができる。
一方で、内面的価値の発展、すなわち精神的発達を実現するために、仏陀の法がある。これは仏教の伝統的教えで、すべての人は愛や慈悲を基にした内面的平和を創り出す可能性をもっている。仏陀への祈りだけでなく、仏陀の法を通して自分自身の心の中でこのことを大切にすることは、とても有意義なことだ。もちろん我々は仏陀に祈る。しかし大切なことは仏陀自身が述べているように『汝自身の支配者になれ』ということだ。行いのすべては個人に依拠するものなのだ。実に仏陀の法は個人の心を変革してくれる。伝統的に日本は仏教の国でもある。それゆえ、確かにあなたがたは我々を援助できる」

−あなたは40年前にチベットを脱出、インドへの亡命を余儀なくされた。その間多くの困難や苦しみを経験されてきたことと思う。どのようにして心の平和を保持しつづけたのか。
「私個人の経験で、悩みを乗り越える上で間違いなく助けになったのは仏陀の法だ。もちろんある状況下で、怒りや憎しみ、それに嫉妬といった感情が生じるのは自然のことである。仏法の修行の中心には、これらネガティブな感情が、いかに多くの害を我々に与えるかを教えるものがある。状況がこれらネガティブな感情を引き起こすのに充分なものであっても、その破壊性を自覚することで、最初からこれらの悪感情と距離を保つことができる。そして慈悲、寛容、精神的和解といった感情を意図的に増大させることができるのだ。ポジティブな感情を意識的に広げることでネガティブな感情を解消する。このように心の持ち方によって大きな違いが生まれてくる。私自身の経験では、仏教の教えの実践が日常の生活の中で、とくに困難な状況に直面した際には大きな力となり、心の平和を維持することに役立つ。心の平和があれば困難な事態は消失する」

−あなたにとって<自由>とは何を意味するか。
「とても重要なことだ。一人の仏教僧として私は次のように考える。
すべての生きとし生けるものは幸せを求め、苦しみを乗り越えたいという願望を持っている。そしてすべてのものは苦しみを克服する権利を持っている。我々人間は知性によって他人を助けるのと同様、自分自身を守る強い能力も持っている。
個人の創造性は人間の最も重要な価値の一つだ。創造性という人間の性質を充分に生かそうとする際、制限や拘束があれば、精神的にこの可能性を弱めることになる。だからこそ我々には自由が必要なのだ。たとえ小さな子供であっても、家庭や学校で、そこに自由の雰囲気、解放された環境があれば発達はずっと健康的でより良いものになる。一方環境がいつも抑圧的で堅苦しいものであったら、本来もつ可能性が小さくなる。それゆえ幸福な人間社会、健全な共同体を作るためには自由にむけての個人的な努力が大変重要だ。
さて全体主義について見てみよう。20世紀の初頭には国家と同じく個人も全体主義、独裁主義のシステムをもった社会への変容を経験した。それは極めて困難な時代だった。
人間は社会的な動物である。私は人間の最も基本的な性質は、優しさであると考える。だから他者への思いやりや協力の気持ちが本来すべての始まりだ。しかしながら、困難で抑圧的な状況下では、時として思いやりの気持ちは失われてしまう。自分自身が他者からの思いやりで包まれていないと、他者に対して思いやりを持つことは困難だ。
一つ付け加えたいことは、時として自由と権利を熱心に求めるあまり、責任についての意識が希薄になることがあるという事だ。権利と責任は両立しなければならない。完全な自由を持つということは、より大きな責任を持つということを意味する。誰か他者に物事が支配されていれば、責任は他者にあるので、責任にわずらわされることはない。しかし、人が完全な自由を持っていれば、より大きな責任感を持つべきだ。これを一つの機会と考え、正しく肯定的に活用しなければならない。私はそのように<自由>という言葉について考える」