チベットの歴史と自治獲得闘争の軌跡


■中国侵攻以前のチベット
 チベットの歴史は2000年の昔、初代国王が諸部族を統合したことにはじまると伝承されている。
 7世紀に伝わった仏教は、その後独自の深化と発展を遂げ、チベットの精神的支柱になるとともに、周辺諸国にも大きな影響を与えた。観音菩薩の化身とされるダライ・ラマを、宗教と政治の両面において最高指導者とする体制が確立したのは17世紀である。
 19世紀、外国に固く門を閉ざし強固な鎖国政策をとっていたチベットに、インドから東アジアへの進出をねらうイギリスの目が向けられた。イギリスの影響力の強まりを恐れた清朝は、1910年首都ラサに侵攻、ダライ・ラマ13世はインドに亡命した。しかし翌年辛亥革命が勃発し清朝は崩壊、清朝官吏、兵士は全て追放され、帰国した13世ダライ・ラマは独立を宣言した。

■チベットへの中国侵攻
 中華人民共和国が樹立されると、人民解放軍は1950年「帝国主義者の圧政からチベット人民を解放するため」チベットへ進攻し、軍事管制下に置いた。
 1959年3月10日チベット民衆の抵抗運動は頂点を極めた。ダライ・ラマ(現在の14世)が中国側に拉致されることを懸念した民衆は、ノルブリンカ宮殿を取り囲み、ダライ・ラマの身を守るとともに、チベットの独立や中国の撤退を訴えた。その数はラサ人口の半分にあたる3万人にのぼったといわれる。3月19日中国軍はノルブリンカ宮殿への砲撃を開始、多くの死傷者を出した。
 一方、ダライ・ラマは砲撃の直前にひそかにラサを脱出。インドに亡命政府を樹立した。10万人以上のチベット人がダライ・ラマを慕い、中国の弾圧を逃れるために、インドやネパールに脱出した。

■チベットの現状と展望
 チベット政府の発表によれば、中国軍の進攻以降、チベット総人口の5分の1に当たる120万人もが犠牲者となり、多くの僧院・寺院が破壊された。近年は中国政府の入植政策によりチベット人の民族的独自性が危機に瀕していると訴えている。また森林の乱伐や核廃棄物の投棄による環境破壊も懸念されている。
 自治拡大のための運動は、非暴力のデモばかりかダライ・ラマの写真の所持でさえ取り締まりの対象となっている。政治犯に対する拷問も多く報告されている。
 1987年の米国議会、西ドイツ議会、欧州議会で相次いでチベットにおける人権侵害に関する法案や決議が可決され、1989年にはダライ・ラマがノーベル平和賞を受賞するなど、国際社会の支持はチベットに集まっている。
 ダライ・ラマは一貫して非暴力の立場を貫き、柔軟な姿勢で中国への対話を呼びかけている。
 ダライ・ラマは チベット高原を、「人間と自然が調和して、自由に平和に暮らしていける保護区」(ノーベル平和賞受賞記念講演)である<アヒンサー地域(非暴力の聖地)>にすることを提案している。