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書評--『こんな都市に住みたい』 山本理顕編著、平凡社
社会的な構造の問題としての建築。今そんなことを言ったら、ひとは真っ先に「姉歯建築士事件」を思い浮かべるかもしれない。 逆に言うと、ひとは建築設計という職能に、経済と順法という、その程度の社会性しか認めていない。 実際のところ、建築家を名乗るものの多くが、ただ与えられた条件のなかで流行のデザインを施すくらいしか能を持たず、彼ら自身がそれを良しとし建築雑誌もそれを称揚しているのだから、しかたない。
しかし山本理顕はそのような「常識」に真っ向から立ち向かっている。
人間の社会は、実は空間によってこそ規定されている。たとえば我々は住宅という空間に住まざるをえないのだから(それを逃れるにはホームレスになるしかない)、住宅は暴力的に我々の生活を決定付けているとすらいえる。
それではその空間は誰によって決められるのかというと、それはその時代の要求を読み取った建築家たちであるはずだ。実際、今あるLDK+個室群という住宅形式は、かつて西山卯三ら優れた建築学者らが構想したものに他ならない。
すでに発見された空間形式が、今も社会の構造とぴったり合致しているなら、ひとはその暴力的な規定への違和を感じることもないだろう。 だが山本は、今の建築形式はどれも現代社会に追いついていないと感じている。社会科学系の学者たちを呼んで建築家たちとの対談を仕組んだのは、山本のそのような苛立ちの故だ。
原広司の下で世界中の集落を調査し、そのなかで生活空間を構造的に記述することを身につけた山は、彼自身優れた社会学者であると評してもいいくらいだ。 それは、上野千鶴子と松山巌を迎えた鼎談においてはっきりと感じられる。上野の現代日本に対する批評的な眼差しは、山本の空間記述と見事にシンクロしている。 上野が近代家族の終焉を論じ、近代家族を入れる箱にも引導を渡したいというとき、山本のもっともよき理解者がそこにいる。同時に、上野も山本の構想に多大な刺激を受けているだろうことは間違いない。
だが、本書のスリリングなところは、最後に出て来る宮台真司が、上野のそのような一見過激に見える言説ですら時代遅れだと言い切るところにある。 宮台が言うのは、「脱主体化」「脱標準化」された身体はもはや空間を必要とせず、したがって建築は力を持ちえない、ということだ。
しかしその宮台も、透明な身体を言う伊東豊雄も、あるいは他の社会学者や建築家も、共通して言及していることがひとつある。 それは老いたものたちの空間をどうするのかという問題だ。強者はどのような空間でも生きられる。 しかし弱者は違う。死に近づいた状態で、初めて見えてくる切実な問題がある。社会も建築も、その問題に対して今はまだ解答を出していない。
さて、山本はこうした論理的修練を積みながら、それを実際の建築として立ち上げる努力を続けている。 コンペで勝ち取った「邑楽町役場庁舎」計画は、住民のニーズによってその形態がいかようにも変わりうるという画期的なものだった。建築が社会の構造と重なり合うことが、そこで可能になるはずだった。
しかしこの計画は、選挙で新しく決まった町長により、白紙撤回されてしまった。そしてあろうことか、まるで「標準的」な(つまりは時代遅れな)別の庁舎案が改めて採択されたという。この社会は停滞を続け、軋みはいたるところで起き続けるに違いない。宮台の言うのとはまったく別の意味で、建築は無力だ。
(鈴木隆之、書評紙『週刊読書人』掲載)
書評--『あったかもしれない日本』橋爪紳也、紀伊国屋書店
歴史を決めていくのは、その時代の構想だろうか、それともそんなものとは関係のない出来事の力なのか?
歴史上のあの事件がなかったら…そんな発想から書かれたSFは多い。
それは僕たちに、出来事によって決定付けられてしまった歴史を、構想の側に引き戻したいという欲求があるからなのかもしれない。目の前にある風景とは違う現在の姿を思い描く…それは魅惑的だが実際にはかなわぬ夢だ。
しかし可能性としての「もうひとつの現在」を考えることはできる。しかも、きわめて具体的に、視覚的に。それを見せてくれるのが、本書である。
近代日本において、実現されなかった都市計画や建築の案が、豊富な図版と資料とともに紹介される。 それらは実際に建った建築よりも、はるかに雄弁に理想を語りだす。 記憶の片隅に追いやられていた夢が、突然鮮明に甦るように。 多くの場合それらは、その大きすぎる夢のゆえに実現が許されなかった。 それを考えれば、時代の求めたものがそこに凝縮されているのは、むしろ当然だとも言える。
著者の橋爪は、その夢を丹念に追いかける。
関東大震災後の帝都復興計画、関西私鉄沿線における「郊外」の発見、皇紀2600年の幻の万博、幻の東京オリンピック、大東亜の理念を具象化せんとする建築群、忠霊塔、そして戦後の復興はかくあるべきと構想された都市像と建築の姿… これらを目で追っていくだけで、日本という国が近代の目覚め以降何を追い求めて疾走してきたかがはっきりとわかる。
これらが、仮に実現していたとしたら、どうなっていただろう? たとえば東京に月島埋立地周辺で計画された万博構想は、そこを水上の新都市として建設する気宇壮大なものだった(本書109P)。バブル経済末期の「東京都市博」計画の比ではない。 もしこれが実現していれば、今ある湾岸エリアよりも、ずっと魅力的な風景が出来ていただろう。
だが一方で、こうも思う。これらがすべて実現されていたとしても、今の日本はそうは変わらなかったのかもしれない。 人間は理念を追い求めるが、人間を突き動かすのは結局は目の前にある現実だ。 たとえば丹下健三は、戦前「大東亜建設記念造営計画設計競技」に参加する際、こんなことを言っている。 「上昇する形、人を威圧する塊量、それらは我々とはかかわりがない、かかる西欧の所謂『記念性』を持たなかったことこそ神国日本の大いなる光栄であり、おおらかなる精神であった。(本書164P)」。 橋爪の解説する通り、丹下は「頭に類する造詣を『西欧的支配欲の形』と断罪」していたわけだ。 その丹下が、20世紀の末には、双塔の形が上昇する東京新都庁舎を設計している。丹下のなかに、その矛盾に苦しんだ形跡はなかった。
それでも僕自身は、時代を構想する建築の可能性にかけてみたいという気がする。橋爪は同じ「大東亜設計競技」の建築案のなかから、西山卯三のそれを取り上げ解説している。これは旅人が集う祝祭都市を構想したもので、橋爪の言う通り「独自の聖地像を思い描くことに成功している」。
時代におもねる必要はない。その時代の力を借りて、独自の夢を見ればいい。たとえそれが実現されないとしても、後年、橋爪のような優れた歴史家が、それを発掘し意味付けてくれるだろう。
(鈴木隆之、書評紙『週刊読書人』掲載)
書評--『万博と戦争』椹木野衣著、美術出版社
今日、芸術や建築を国家のプロジェクトだと言われてピンとくるものは少ないだろう。 確かに国策と美術はつりあわなくなったし、この国の風景を一変させるような都市計画もない。 だが実のところ、家一軒建てるにも銀行のお許しを得なければならず、その元締めは日銀・経済金融省だ。 勲章の類と縁深い芸術家も多々いる。万博の時代など100年前に終わったと言われながら、今なお愛知でそれが開かれようともしている。 「環境」という一見新しいキーワードによって「国家」の概念すらも延命可能なのだと言わんばかりに。
「万博批判」は、それ自体は新しいものではない。 1960年代、厳しい体制批判(近代そのものへの批判)が繰り広げられたとき、近代国家のプロジェクトそのものだった万博が批判の的にならないはずがない。 椹木の視線は、新しい批判の論理というよりも、かつてなされた批判の根にこそ向けられる。その根は70年以前、戦後、戦中にまで遡る。
近代とは、未来に向けて世界が発展していくことを前提に、仮設された時代だ。 「今この時」は常に発展の一段階に過ぎない。未来を召喚するために生産と消費を活発にしよう―。 そのサイクルを段階的に早めるのが経済成長だが、一気に進める手段(究極の消費=蕩尽)として戦争がある。 そしてその先にある未来像を見せるものとして万博がある。椹木の言うとおり、戦争と万博は表裏一体の国家プロジェクトであるというしかない。
破壊的な蕩尽は、既成の意味が消え去る瞬間でもあり、近代の夢に一撃を与えるチャンスでもあった。 椹木はその観点から、関東大震災や十五年戦争を見る。そのチャンスは生かされなかった。 むしろそれこそが、「未来」という名の虚構を延命させた。震災後の都市計画は満州の首都像として生き延び、敗戦とともに消えた満州の夢が万博の未来都市像として甦る。 あるいは丹下健三が戦中に描いた「大東亜建設忠霊神域計画」が今も蒸し返される遷都構想に結びつく、と椹木は指摘する。
椹木のこの視線は、近代日本の美術・建築の歴史のなかから、「環境」という言葉を執拗に探し出そうともする。 それはきっと、「未来」とは実態ではなく、我々を取り巻くイメージ=「環境」でしかないからなのだろう。 磯崎新が60年代に提起した「見えない都市」はまさにそのイメージだった。 しかし根はもっと深い。 椹木は丹下健三のパートナーだった浅田孝や、丹下自身の言葉のなかから「環境」の語を探し出し、それがどのような意味を持って反復されてきたかを検証する。
ところで、椹木は本著で万博を批判し、「環境」という語への並々ならぬ執着を見せながらも、「環境」を旗印としている2005年愛知万博については直接言及していない。 だからこその本質的な批判として読むことはできるだろう。目の前に展開される現象そのものより、地の下のその根をこそ考えるのは批評家の重要な仕事だ。 だがたとえば、大阪万博を担った磯崎新の「苦悩」を考えるのであれば、合わせて磯崎のその後の30年をも批判的に再検証する必要がある。 「未来」が「環境」という名に変わって反復し定着してきたこの30年間を考えなくてはならない。
果たして愛知万博への批判はどのように可能なのか? 近代への批判として現れたダダイズムや土着思想そのものが「環境」化しているかに見える、この時代において?
(鈴木隆之、書評紙『週刊読書人』掲載)